劇場で観た映画の覚え書き


by am-bivalence
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カテゴリ:人間ドラマ( 42 )

 年末、HDDビデオの空きを増やすため録画したまま放っていた「ゴーイング マイ ホーム」を観てから消そうとしたら、ハマってしまいました。

 「ゴーイング マイ ホーム」は2012年10月から放送されたTVドラマ。
詳細はウキペディア番組HPに譲るとして、簡単にあらすじを説明しますと、

 坪井 良多(阿部寛)はCMディレクターとして日々顧客の御機嫌を取りながら忙しく過ごすサラリーマン。 妻沙江(山口智子)は有名な人気フードスタイリストで、小学生の一人娘萌江(蒔田彩珠)がいる。
 ある日萌江がうちには小人のフロドがいると作文に書き、沙江が学校に呼び出しを受ける。 一方、良多は東京で暮らしているはずの父栄輔(夏八木勲)が長野で意識不明となったと知らせを受け、長野の病院に駆けつける。病院で良多は父を見舞う下島 菜穂(宮﨑あおい)に出会い、父は故郷の長野で"クーナ"という伝説の小人を探していたことを知る。 森に住むクーナは死者と生者を繋ぐ能力があるという。 最初は笑っていた良多も森でクーナの帽子を見つけ、萌江とともに菜穂のクーナ探しに惹かれていく。。。

 このドラマは「誰も知らない」「歩いても歩いても」の是枝裕和監督が初めてTVドラマを手掛けたこと、
長い間引退同然だった山口智子さんが連ドラに復帰したことで話題になりましたが、
視聴率的には振るいませんでした。
 私も是枝監督ということで放送時1,2話観たのですが、TVドラマとしてはテンポがゆっくりで、何が本筋かよく分からない展開に観なくなり放ったらかしになっていました。 視聴率が悪かったのも、その辺りに原因があったようです。
いつまで経ってもドラマチックなことが起こらないのんびりした雰囲気、
重要な事をあえて強調せず視聴者に集中力を要する構成が、
2時間の映画ならともかく週1回放送される連続ドラマでは視聴者の関心を繋ぎとめられなかったのでしょう。
 でも全編を通して観ると、その点こそがこのドラマの面白いところでした。

 このドラマでキーとなるテーマは登場人物たちが何度も口にする
「この世界は目に見える物だけできているわけではない」
ということ。
 その言葉のようにドラマでは疑問が出てきても最初から真実は提示されず、観ているうちに次第に事実関係が分かってきます。
 なぜ萌江は学校でいろいろ問題を起こすのか、
 なぜ栄輔や萌江はクーナを探すのか、
 菜穂、治(西田敏行)親子はなぜ不仲なのか、
 幼なじみの栄輔、久実、治の間に昔何があったのか、、、
随所に伏線があって、何話か後にそれが分かったりします。
しかし全てが最後に明らかになるわけでもありません。
大切なものは表に現れず、真実は隠れてしまうもの、なんです。

 目に見えない大切なものというと"愛"とか"夢"とか"希望"を連想しますが、
劇中のある登場人物が目に見えないものとして"悪意"とか"失望"とかを上げて、はっとさせられます。
確かに世界は”敵意"とか"憎悪"とか目に見えない悲しいものにも動かされている。。。

 映画にはない連続ドラマの強みを活かし、登場人物それぞれのキャラクターが細かく描写され日常生活を丹念に追っているのも面白いところ。
 またドラマの根底に家族の繋がりがあるのが、以降の是枝監督作品「そして父になる」「海街diary」にも通じています。(「そして父になる」の撮影はこのドラマの前だったとか。 番組HPの第7話あらすじには家族について触れている部分があるのですが、本放送には出てきません。 おそらく何らかの理由でカットされたようです。 「そして父になる」にも出演している夏八木勲さんはゴーイング~撮影中にも体調がすぐれず、連ドラとしてはこれが遺作となりました。)
 一点残念なのは萌江が「ホビットの冒険」を読んで小人をフロドと呼ぶようになってますが、ホビットの冒険に出てくるのはビルボ。 是枝監督、「ホビットの冒険」読んでないな(笑)。

 ともあれ、ゴンチチの音楽をバックに、良多と家族が交わすゆるい会話にクスクス笑うのも良し、
ドラマの裏にある世界に想像を巡らすも良し、
沙江の作る美味しそうな料理を楽しむも良し、
「ゴーイング マイ ホーム」は幾重にも楽しめる良質なドラマ、もう少し評価されてもいい悲運のドラマなのでした。
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by am-bivalence | 2016-01-10 00:05 | 人間ドラマ | Comments(0)

SCREEN129 ニーチェの馬

 生きることは"苦役"なのだろうか 公式サイト

 今年最初に観た映画はT田馬場W稲田松竹の2本立てでした。
そのうちの1本が、この「ニーチェの馬」。 観終わった後の正直な感想は、
 "新年早々、こんな重たい映画を観てしまうなんて。。。"
でした。
ユーモアなど全くと言っていいほど無く、世界がじわじわと破滅に向かって行く閉塞感に押し潰されそうになる映画だったのです。
この閉塞感は私を鬱な気分にさせてくれました(苦笑)。
これほど鬱屈した後味を残した映画は、ラース・ホン・トリアー「メランコリア」で絶対的絶望とそれに対峙した時の人間模様を観せられて以来でした。

 この映画が紹介される時はタイトルにもなっているニーチェ晩年のエピソード、
働くのを拒んで鞭打たれている馬にニーチェが泣きながら抱き付き、発狂したという逸話が紹介され、それにインスパイアされて映画が出来た云々が言われます。
映画冒頭にもその逸話がティロップされますが、実際のところ、映画を観ている間はほとんど逸話を気にする必要はないと思います(笑)。
劇中、馬は出てきますが、この馬がニーチェの馬だとは一言も言ってませんし。。。
 この映画の構成はシンプルで、農夫の父と娘が繰り返す生活を6日間ずっと追い続けるだけです。
映画全体の雰囲気は予告編から受ける印象そのまま。
白黒の映像に重苦しい管弦楽のBGMが被さり、戸外は常に強風が吹き荒れています。

 この映画を観ていて感じさせられるのは”生きていることは苦役である”ということです。
戸外に吹き荒れる強風は水を汲みに行くことさえ困難にし、親子の生活を妨げます。
親子は朝起きては着替え、水を汲み、薪割りなどの労働をする生活を繰り返します。
父は右腕が麻痺しており、不自由な体を娘に補助してもらい着替えなければなりません。
毎日の食事は茹でたジャガイモ1個だけという極端に簡素なもの。
そこに喜びは無く、ぎりぎりの生活をただ義務的に日々続けているような日常です。
 それは極限まで切り詰められた人間の生き様、さらには、生命の本質をも象徴しているように思えます。
ただ生まれ、生き、死んでいく生命のありようの象徴です。

 ちなみにこの映画は観る者にも"苦役"を強いるようです(笑)。
普通の映画なら90分で終わってしまうような内容を2時間34分という長尺で、
繰り返す日常を延々と見せられます。
しかも全編で30カットしかないという長回しシーンを注視し続けなければならないのです。

 ただ、父と娘の6日間は全く同じ日々では無く、少しずつ"何か"を失っていきます。
やってきた隣人には世界がひどい有様になっている噂を聞き、
馬は何故か働かなくなり、何かに脅えたようで餌も食べなくなります。
やがて井戸も涸れ、ついには信じがたいものまで失って窮地に陥ってしまうのです。
 何かを失っていく世界、これは"老い"や、生物が死へ向かって行く命の終焉を象徴しているようです。
老いていくというのは今まで出来ていたことが出来なくなっていくことであり、
個体にとって死とは、「ドニー・ダーコ」で看破されたように、世界の終りと同義なのですから。
この映画が6日間の出来事であるのも、神が6日間で世界を創ったことに対比させているそうです。

 そしてラストシーンでの父親の行動。
その姿をどんな状況でも諦めない希望と取る人がいるかもしれませんが、
私には、世界が終わりを迎え死が面前に迫っていても生命は最後まで生きる営みを止められないものだということを表象しているようにしか見えませんでした。
死が目前の状況にあっても、最期の瞬間まで心臓は鼓動を続けるように。

 。。。ところで、ニーチェは鞭打たれる馬に何を見たのでしょうか。
鞭打たれながら生きている馬に、人間の本質を見たのでしょうか。
人生は厳しく時に冷酷で、生は本質的に苦役なんでしょうか。
生命はただこの世界でもがきあがくために死を宿命づけられて生まれてくるのでしょうか。
だとしたら、命にはどんな意味があるのでしょうか。。。

 この映画の世界観は、よく観るとかなり恣意的に形成されているように思えます。
 ジャガイモ1個の食事は、生物にとってエネルギーを補給することが食べることの本質と捉えています。
そこには美味しいものを食べる愉楽はありません。
 主人公二人が父と娘で、夫婦でないのも意図があるようです。
父娘は親子というより主人と使用人のようにも見えます。つまり、愛情が感じられないのです。
 この映画は人生で喜びや意義となるもの、
食欲、愛情、人との結びつきといったものを慎重に拭い取っているのです。

 人はパン無しでは生きられないけれど、パンのみで生きているものでもありません。
むしろパン以外に生き甲斐を見出すのが人間の本質ではないでしょうか。
                               (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2013-03-08 00:54 | 人間ドラマ | Comments(0)
 誰にも言えない、言いたくない、想いを抱えて 公式サイト

 この映画、観たのは2月なのですが、ずっと心の隅に引っかかっていました。
物語の核心ともいうべきところをどう解釈していいのか、分からなかったからです。
(以降はネタバレになるかも知れません。気にされる方は映画を御覧になってから読んでみて下さい。)

  9.11で大好きな父親を失った少年オスカーが、父の遺品の中に鍵を見つけ、その意味を探そうとするこの物語。
オスカーは性格的に人と接するのが苦手で、自分を鼓舞するためにタンバリンを持ち歩き鳴らしながら、人を訪ねて歩きます。
 当初観客には、オスカーが父の面影にこだわり続けるのは、父への思慕や、父を失ったことを受け入れたくない感情からのように見えていました。
ところが終盤になって実はそれだけではなく、オスカーはある罪悪感からも父の死に捉われていたことが明らかになるのです。
 なぜ映画(原作)は、オスカーにそんな"罪"を負わせる宿命を課したのでしょう?
喪失感を描くだけでも物語として十分成立するはずなのに?

 映画には途中からオスカーと行動を共にする、言葉を失くした老人が登場します。
彼は昔のある出来事によって声を出せなくなったらしいのですが、彼の過去に何があったのか、老人は語りたがりません。
 また、オスカーが鍵の出所を探して訪ね歩く人々は、どれも一癖ある人たちばかりです。
  離婚寸前の夫婦、
  話をしていると何度もハグしてくる人、
  話を聞こうともせずに追い返す人。。。
彼らがそうするには何か”訳”がありそうなのですが、映画ではそれらは一切語られません。
 なぜ意味ありげな人達を登場させておきながら、一切説明をしないのでしょう?
9.11という一般には理解しがたいテロによって奪われた人々、
不条理なこともあるがままに受入れよという示唆なのでしょうか?

 先月は3.11から1年、
TVではその日が近づくと3.11の特集番組がいろいろ放送されました。
私は幾つかを部分的に観て、幾つかを記録として録画しておいたまま、
ずっと放置していました。
私は首都圏にいて大きな被害を受けたわけでもないのですが、
あの頃を振り返るのはまだちょっと気が重かったからです。
 最近になってそれらを観始めた時、ふと思いました。
未曾有の災害を前にして、我を失った人たちは少なくなかったはずです。
気が付くと目の前に迫る大津波に、我先に逃げ出していた人、
傍にいた人に手を差し出せば助けられたかもしれないのに、
自身の危険を感じて手を伸ばせなかった人。
あの時何かもっとやれることがあったはずと、悔んでいる人もいるはずです。
 そういった人達は今、心の奥に後ろめたい罪悪感を抱えているかもしれません。
でもそんな想いは誰にも話せないし、話したくないでしょう。

 「ものすごく…」のオスカーが罪悪感という秘密を抱えていたのは、
そんな人達を代弁するためだったのではないでしょうか。
口がきけなくなった老人も過去にそんな経験をしたために、
それを打ち明けたがらないのでは?
オスカーが出会うちょっと変わった人達も、
なにかしら似たような傷みを抱えて生きているのでは?
 だとしたら、生き辛いのは自分だけではなく皆同じ、誰もが何かしら持っているもの。
あの時は勇気が出なかったけれど、今度はタンバリンを鳴らして向かっていこう、
次はもう少し前に踏みだせる。。。
 そんなことをあの映画は伝えたかったのではないでしょうか。

 そう思い至った時、あの物語が2ヶ月目でやっと腑に落ちた気がしたのでした。
                                      (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2012-04-13 22:20 | 人間ドラマ | Comments(0)

SCREEN125 エル・スール

スペイン内戦を知らないと理解できない、
    観る者の想像を刺激する未完映画


 日本映画の名匠小津安二郎監督は映画について、
“言いたいことは隠せ”と言っていたそうです。
“観客に解らなくてもいい、隠せ”とまで言っていたとか。
ビクトル・エリセ監督のスペイン映画「ミツバチのささやき」はまさにそんな映画でした。
フランコ政権下で製作された「ミツバチのささやき」は、
体制批判やスペイン内戦が隠喩として含まれていました。
 「ミツバチのささやき」の10年後、1983年に製作された「エル・スール」も
結果的に主題を隠す形になってしまった映画のようです。
当初製作されるはずだった後半部分が予算不足で撮影できず、
劇中描かれている父親をめぐる幾つかの謎が残されたままになっているからです。
でもそれが観客の想像を掻き立て、観た者に大きな余韻を残す映画になりました。

 舞台は1957年のスペイン北部、娘エストレリャが枕元に愛用の"振り子"を残して去って行った父の思い出を回想する形で映画は進みます。
医師である父は"振り子"を使って水脈を探り当てたり、
生まれてくる子供を娘だと言い当てたりする、不思議な才能も持っています。
 敬愛する父が祖父と"ケンカ"し二度と故郷の南に戻らないことを聞き、
エストレリャは南に興味を持ち始めます。
エストレリャの初聖体拝受の日、南から祖母と乳母が立ち会うためにやってきますが、
父は裏山で猟銃を撃っていて手伝おうともしません。
式にも隣席せず、教会の物陰で見守るだけの父。
ある日エストレリャは父がイレーネ・リオスという女性を密かに思い、
彼女と関わりがあることを知ります。。。

この映画は苦悩する父を見つめる少女の成長物語と解説されることがありますが、
それにはちょっと違和感を感じます。
この映画では少女は身体的に成長していても、精神的にはまだ成長できていないからです。
それは製作されるはずだった後半部分、少女が南部で父の過去を知ることで
成されるはずだったのかもしれません。
監督がこの映画を不完全と呼んでいるのはそんなところにもあるのではないでしょうか。

 この映画の真の主役は娘の視点を通して間接的に描かれた父とその過去です。
映画の舞台はスペイン北部なのに、タイトルが父の過去がある南部を指す
「エル・スール」であるのがそれを象徴しています。
その父の苦悩、無念、憤り、孤独は、スペイン内戦を知らないと正しく理解できないと思います。
 以前「パンズ・ラビリンス」でも触れましたが、
スペイン内戦は自由主義、社会主義政権だった第二共和制政府が
フランコのファシズム反乱軍に敗れた戦争でした。
第二次大戦後もスペインは唯一ファシスト独裁政権が続き、
共和制の残党は弾圧されていたのです。
父親はその共和制側で、内戦後故郷の南部から北部へ逃れてきたようです。
劇中乳母ミラグロス(同名の乳母は「ミツバチのささやき」にも登場します)
が語ったように、父は共和制側、祖父は反乱軍側であり、
肉親と言えど対立、罵り合ったのは、スペイン内戦の一つの典型でした。
 娘の聖体拝受式に父親が参加しようとせず、
裏山でうっぷんを晴らすように猟銃を乱射していたのも、
保守的教会勢力は反乱軍を支持したため共和制の敵だったからでしょう。
(サグラダ・ファミリアが内戦時に破壊の対象となり、
建設続行不能と言われるほど痛手を受けたのもこのためでした。
戦争ではどちら側にも正義はないのです。)

 映画はエストレリャが南へ旅立つ所で終わりますが、
この映画には原作小説があって、原作では南での出来事も描かれています。
彼女は南で父が連絡していた女性を探し、異母兄弟に会うことになるのです。
ただ、南でも父の過去について新たに判明することはあまりありません。
原作は映画と異なる点も多いのですが、映画の後半が作られたとしても、
原作と同様、父に昔何があったのかは結局隠されたままで、
観客の想像に委ねられたのかもしれません。
                           (☆☆☆☆)
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by am-bivalence | 2012-03-10 13:51 | 人間ドラマ | Comments(0)

SCREEN124 マネーボール

 理論じゃない人間的な球界裏事情ドラマ 公式サイト

 今年10月5日、アップルのスティーブ・ジョブズ氏が亡くなりました。
享年56歳、まだまだ活躍できる年齢での死去が惜しまれます。
 彼のキャラクターは強烈で、毀誉褒貶の激しい人でした。
私には、ジョブズは技術者というより、
(いろいろな意味で)アーティスト的感覚を持った辣腕経営者、
魔術的な能力を持ったプレゼンの天才といったイメージがあります。
個人的には、その稀有な人物像は興味を惹かれますが、
一緒に仕事はしたくないなぁ、というのが正直なところです(笑)。
 ジョブズがペプシ・コーラのスカリーをアップルに引き抜くとき、
「一生、砂糖水を売っていたいか、それとも世界を変えたいか」
と言ったのはよく知られた話です。
ジョブズはコンピューターが社会を変え、
若い世代が古い世代と入れ替わることに価値を見出していたようです。
映画「マネーボール」の主人公ビリー・ビーンも、
尖鋭的野球理論で旧態依然だったメジャー・リーグの世界を変えた男でした。

 もっとも実際のビリー・ビーンの動機は球界を変えたいというよりも、
貧乏球団が潤沢な資金を持つ強豪に勝つにはどうすればいいか、
が発端でした。
 「マネーボール」いうタイトルや、
予告編であったように、チームの戦略を考えても
実際の試合は見ないというスタンスから、
主人公はお金や理論でみな割り切ってしまうドライな人間で、
そんな人物像を描くような映画かと思っていましたが、
(脚本家の一人は「ソーシャル・ネットワーク」のアーロン・ソーキン)
実際は違っていました。

 ビリー・ビーンは元選手であり、当初活躍を期待されながら
実績を残せず、ジェネラル・マネージャーに転身した経緯がありました。
映画の中で彼は、過去に多額の契約金に惹かれ、大学進学せずに球界に入ったことに
後悔に似たわだかまりを持ち続けます。
 ビリー・ビーンは球団GMとしては奇妙な2つの習慣を持っています。
 1.自チームの試合を見ない。
 2.自チームの選手とは親しくしない。
映画を観ていくと、実はこれには彼独自の人間臭い理由があるのが判明します。
そう、この映画はとても人間的なのです。
登場する人物はみな、欠陥や問題を抱えています。
そんな彼らが敗者復活していくところがいいんです。
 故障によって選手生命が危うくなっていた捕手が
突然自宅にやって来たビリーから一塁手として契約のオファーを受けた後に
家族とそっと抱き合うところなどは感動的です。

 でもそこはやっぱりアメリカ社会、選手を解雇するのもドライで、
シーズン中でも まるでカードを交換するように簡単に
球団間で選手をトレードする様子に驚かされました。
厳しく能力を問われるプロの世界だから尚更なんでしょう。
ビリーが獲得した選手を起用しない監督との駆け引きも面白いです。
フィリップ・シーモア・ホフマンが「カポーティ」とは打って変わって
いかにもメジャー・リーグの監督といった雰囲気で好演してます。

 ジョブズはスタンフォード大学の卒業式で行った有名なスピーチを、
影響を受けた本の一節を引用し、
 "Stay Hungry. Stay Foolish."
 (貪欲でいろ、無謀でいろ)
と言って終えました。
 ビリー・ビーンも、強豪球団から高報酬の誘いを受けたとき、
傍から見るとfoolishな選択をします。
でもそれは彼らしい人生観に基づく、彼にとっては自然な選択でした。
                     (☆☆☆☆)
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by am-bivalence | 2011-12-31 00:14 | 人間ドラマ | Comments(0)

SCREEN122  誰も知らない

 大人としての覚悟を問われる 公式サイト

 10月に早稲田松竹で是枝監督特集があり、
初めて「誰も知らない」を観ました。
同時上映の最新作「奇跡」は今一つだったのですが
(そもそも"まえだまえだ"兄弟があまり好きではない(苦笑))、
「誰も知らない」はずっしりと観ごたえのある映画でした。

 実際にあった子供置き去り事件を題材に作られたこの映画、
内容は重いし、子供たちが追い込まれていく様子に、
観ていて、いたたまれなくなる映画でした。
でも目を逸らすことができません。
彼らがどうなってしまうのか、最後まではらはらさせられたからです。
出ている4人の子供達は自然でいかにも子供らしい。
柳楽君、この頃から真っ直ぐな目力あります。

 子供達を放ったらかしにして悲惨な状況に遭わせてしまう
母親のいい加減さには怒りを覚えますが、
YOU演じる母親はどこか憎めないところがあって、
こんな母親、いかにもいそうに思えてくるのが怖いところです。
キャスティングが絶妙です。
 一見、子供達に愛情を注いでいるように見える母親が、
簡単に子供を見捨ててしまうところは理解し難いかもしれませんが、
子供をペットと同じ感覚で扱っていると思えば、納得いくのではないでしょうか。
子供がちょっと不満を漏らし反抗的になると、プイと見捨ててしまうところは、
犬などを面倒になると簡単にを捨ててしまう人達に通じるように思います。
冒頭、子供をカバンの中に隠して引越して来る様子など、
ペット禁止のマンションに動物を持ち込むような感覚なんでしょうか。

 唯一の救いは兄弟のリーダー的存在である長男の明です。
いい加減な母親とは対照的に、しっかり者で道徳意識を持ち合わせています。
彼は生活に困窮しても、万引きなどの犯罪の誘惑に惑わされず、
援交で生活費を作ってくれた女子高生の友人も拒否してしまうのです。

 それにしても観ているうちに、この母親を単純に非難することが出来るのか、
私には自信がなくなってきました。
 彼女は2人目の子供を出産したとき、
男に捨てられ精神的にかなり不安定だったのではないでしょうか。
出生届を出す気になれないうちに機会を逸してしまい、
そのままずるずると生活を続け、心の痛手を癒すために男を渡り歩いて、
3人目、4人目が出来てしまい。。。
(妄想です(笑))
 面倒なことを後回しにして、そのまま放置してしまう、
まずいことは分かっていてもその状況から抜け出せない。。。
そんなことって誰でも何かしら経験ないでしょうか?
でも実はそれは、面倒だからではなくて、
行動する勇気がないのを面倒とごまかしていないでしょうか?

 YOU演じる母親は明にこう言います、
「私は幸せになっちゃいけないの?」
彼女は全く自覚していなかったのです。
自分を犠牲にしても負わなければならない責任があることを。
自分の事しか頭にない行動が、周囲に多大な負担をかけていることを。

 なぜ子供たちがこんな目に逢わなければならないのか考えるうち、
自分は大人として責任ある行動をしているのか、
自身にも問いかけさせてしまう映画なのでした。
                     (☆☆☆☆)
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by am-bivalence | 2011-12-23 21:27 | 人間ドラマ | Comments(2)

SCREEN121 大いなる西部

 西部劇を否定した西部劇 参照サイト

 午前10時の映画祭には西部劇が6本含まれています。
(「ワイルド・バンチ」「明日に向かって撃て!」
「シェーン」「大いなる西部」「荒野の七人」「荒野の用心棒」)
ジョン・フォード作品やジョン・ウェンが出てこないのが"?"ですが、
ともあれ、私がこの中で一番面白いと思ったのが、「大いなる西部」でした。
 なにしろこの映画、
タイトルからは西部劇礼賛のような映画に見えますが、実際はその逆、
西部劇が暗黙のうちに賛美している"力の正義"や"暴力"を批判し、
ある意味西部劇自体を否定してしまったような映画なんです。
(以下ネタバレ注意)

 「大いなる西部」の主人公は東部からやってきた元船長、ジェームズ・マッケイ。
彼はテキサスの大牧場主の娘パットと婚約し、
東部の生活を捨ててテキサスに来たのですが、
パットの父が経営する牧場は水場を巡って別の牧場と対立していました。
テキサスに着いて早々マッケイは、
敵対する牧場主の息子一党から嫌がらせを受けます。
ところがこの時のマッケイの反応が変わっていました。
憤慨するパットを横に、マッケイは嫌がらせを受けても、
何事もなかったかのように平然としていたのです。
 普通の西部劇ならその場で応酬するか、後できっちりやり返すのが定石でしょう。
しかしマッケイにはそんなそぶりは全く無く、
ちょっと手荒い歓迎を受けた程度にしか受け取ろうとしませんでした。
彼は徹底した平和主義、非暴力主義者だったのです。

 マッケイは"力"を行使したり、誇示することを嫌います。
彼の平和主義は西部の人間には臆病者のように見られ、
やがて婚約者からも失望されて、マッケイは牧場を出て行くことになります。
非暴力を貫くのは、実は暴力に暴力で対抗するよりずっと難しく、
理性と勇気がいるものなのですが。。。
 牧場を出て行く夜、
マッケイは牧童頭のスティーブと二人だけで殴り合いの決闘をするのですが、
最後にマッケイは吐き捨てるように言います。
「これが何の証明になった?」

 西部劇と言えば卑劣な悪漢を正義のガンマンが撃ち倒すのが一つのパターン。
「シェーン」などはその典型、爽快な勧善懲悪がカタルシスを生む、娯楽の王道です。
でも、それって冷静に見れば殺人じゃないですか?
銃に対抗して銃で決着を付ける、最後は正義の名の下に力が物を言うわけです。
西部開拓時代、法の庇護が及ばない広大な土地では、
そういった事はどうしても必要だったのでしょう。
開拓者が無法者、大自然の猛威といった様々なものから身を守るために
頼れるのは自分自身しかなかったからです。
自立自衛が開拓者精神、アメリカ人の精神的原点でもあります。

 ただ、力に力で対抗する時、無法者とヒーローの境界は
"正義を行っている"という一点だけです。
でもその正義が相手の立場からは悪だったら?
各々がそれぞれの立場で正義を主張したらどうでしょうか。
それは、自分が正しいと思えば力づくで相手に従わせてしまう危険性を孕んでいます。
 そして強さが物を言う世界では、マッチョな男らしさを信奉し、
臆病者を毛嫌いするメンタリティが生まれてくるのです。
(今年公開の「ツリー・オブ・ライフ」にも息子に強くあることを強要する父親
が描かれていますが、この舞台がテキサスであるのも無関係でないと思います。)

 「大いなる西部」でも仇の牧場主ヘネシーにも言い分があって、
彼の主張も正当性があるように描写されています。
 マッケイは何とか両者を和解させようと模索するのですが、
水場を争う対立はエスカレートしていき。。。
 私は途中までこの映画が、ひょっとしたら人が死なない
珍しい西部劇なのかと思いながら観ていました。
さすがに娯楽映画、そうは行かなかったのですが、
それは非暴力という理想の限界を表しているんでしょうか、
次の世代に新しい時代の変革を託してるんでしょうか。

 原題は"The Big Country"。
映画では広大な西部の風景が写りまさにビック・カントリーだと思わせますし、、
劇中でも何度か「ここはビック・カントリーだから」と誇らしげにテキサス人が言います。
その時マッケイは「海の方が大きい」とつぶやいて、その独善性を静かに揶揄するのです。
(実際、アメリカ内陸部では生涯一度も海を見ない人も少なくないそうで。
マッケイが元船長という設定が生きています。)

 西部劇全盛の1958年にこんな映画が
2時間46分の大作として作られたのはちょっと驚きでした。
スェーデン出身作家の小説を原作にしているそうですが、
ドイツからアメリカに移民してきたテイラー監督だから
冷静にアメリカ人の精神性を観ていて、原作小説に興味を持ったのかも知れません。
 午前10時の映画祭の西部劇を全部観ておいて
一番面白かったのがこんな西部劇らしくない西部劇という私も、
本当は西部劇が好きでなかったりして(笑)。
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by am-bivalence | 2011-10-15 01:45 | 人間ドラマ | Comments(0)

SCREEN119 冬の小鳥

 受け入れがたい現実を容認していくとき、人に起こる変化 公式サイト

 NHK教育に「名作ホスピタル」っていう番組があります。
昔のアニメを題材に心や体の健康を考える番組なんですが、
キャストの中川翔子ちゃんのオタクっぽいところが好きで、毎回何となく観てます(笑)。
 前回は「大切なものを失ったとき」がテーマでした。
番組によると、人はかけがえのないものを失ったとき次の段階を経て感情が変化し、
現実を受け入れていくそうです。
 1)パニック(号泣、混乱等)
 2)否認、怒り(そんなのウソだ!、何で私がこんな目に遭うのか、等)
 3)取引(良い子にしているから返して下さい、等)
 4)抑うつ(何もする気が無くなり、虚無的になる)
 5)受容(失ったことを現実としてあるがままに受け入れる)
人はこの段階をきちんと踏まえた方が早く感情が安定するとも言います。

 知っている人ならすぐ気付いたと思いますが、
これはキューブラー・ロスの言う、人が死を受け入れる際の心理とほぼ同じです。
ロスは著書「死ぬ瞬間」で、不治の病に侵された人が死を受け入れていく過程の観察から、人の心理は段階を追って変化し最後は静かに死を受け入れていくとしました。
番組で示されたモデルはこれを応用・発展させたもののようです。
大切なものを失った場合も、死を目前にした場合も、
受け入れがたい現実を容認する心理過程は同じ、という事なのでしょう。
 韓国映画「冬の小鳥」を観ていたら、この事を思い出しました。

 映画「冬の小鳥」は1975年の韓国を舞台に、
大好きな父親に孤児院に置き去りにされた少女ジニの物語。
 この映画、プロデューサー、キャスト、撮影が韓国のせいか、韓仏合作の韓国映画となっていますが、監督のウニー・ルコントは幼少の頃フランスに里子に出された韓国系フランス人。自身の体験を元に書いた彼女の脚本が注目され、制作されたそうですが彼女はずっとフランス映画界に関わっていて、彼女自身は韓国語も忘れてしまっているそうです。
実はこの映画、韓国映画の皮をかぶったフランス映画とも言えるのではないでしょうか。

 それはともかく、この映画の一番の魅力は主人公であるジニです。
演じるキム・セロンの可愛らしさもあるのですが、
父に突然孤児院に預けられたジニがとる反抗が、とても子供らしく自然です。
例えば孤児院での初日、ジニは置き去りにされたことが信じられず孤児院に入るのを拒否し、夜真っ暗になるまで庭の片隅でずっとうずくまっています。
この意固地さと不安感、私は子供の頃の似たような体験を思い出しました。
 大人に反抗する子供と言えば、「大人は判ってくれない」のコレット君ですが、
彼は平気で嘘をついたりするちょっと悪ガキで、少し理解しがたいところがあるのに対し、
ジニの感じる戸惑い、不安、怒り、そして世界への不信感はよく理解できますし、
そこから生じる彼女の反抗も共感できます。
孤児院のジニは「害虫」のサチ子のように寡黙で、笑いません。

 孤児院にいる事実を拒否し、周囲から孤立していたジニも、
次第に父親に捨てられた現実、孤児としての生活を受け入れざるおえなくなります。
この過程が冒頭の「大切なものを失ったとき」と似た部分があって、あの番組を連想させたのでした。
孤児院の友達との間に起きたつらい出来事の後、父との繋がりが無くなった事実を知った時、怒っていたジニは抑うつ状態になっていきます。
この後ジニは、ある通過儀礼的行為を行ったことで、態度が大きく変化するのです。
ここはある意味「死ぬ瞬間」のようで象徴的です。
人が受け入れがたい事実を認めるには、このような過程が必要ということでしょうか。

 ジニは最後まで父を慕う感情を失くしませんでした。
親への盲目的信頼がまた子供らしくて、胸を締め付けるのでした。
                            (☆☆☆☆)
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by am-bivalence | 2011-05-22 23:03 | 人間ドラマ | Comments(2)

SCREEN117 害虫

宮崎あおい、蒼井優のファンは必見だが、観客に観察力を要求する映画公式サイト

 本作は2002年に公開されたもの。
今や日本を代表する若手人気女優となっている
宮崎あおいと蒼井優が15歳の時に共演した貴重な映画です。
二人とも若い、というより幼い! 彼女達のファンであれば必見!
。。。と言えるでしょうが。。。ただこの映画、観客を選びます。
つまらないと言う人もいれば、傑作と言う人もいて、人によって評価が大きく分かれるようです。

 ともかくこの映画、説明をしない映画です。
セリフが少ないというのもありますが、
(主人公サチ子(宮崎あおい)は寡黙な少女で、なかなか感情を表に出しません。
いつもポケットに手を入れて歩く様子は、何かを秘めているようで象徴的です。)
意図的に分かりにくく場面を切り取って見せているのです。
 例えば冒頭からいきなり、女性が手首を切って自殺しようとするシーンで始まりますが、
彼女がサチ子の母親であるのが分かるのは後になってから。
しかも彼女が自殺しようとした理由は、最後まで分かりません。
分かっているのは彼女が自殺未遂を起こしたという事実だけ。

 サチ子が母親と二人暮らしの母子家庭であるのも、何か訳有りのようですが、
映画の本筋と関係ないためか、これも全く説明なし。
 途中要所要所で、字幕の文章が出てきますが、
それがサチ子とサチ子の担任だった元小学校教師とがやり取りする
手紙の文章であるのが分かるのも、しばらくたってからです。

 極めつけは、予告編にも出てくる住宅が燃えているシーン。
この映画の中で重要なエピソードなのですが、
この家が誰の家なのか判別できるのは、火災が起こるずっと前の1カットだけなのです。
(私も始め、燃えているのが×子の家とは気付かず、それを知った時は驚きました。
なぜ彼女の家が標的にされたのか、私は未だにはっきり理解できていません。
どなたか分かる人は教えて下さい。)
 ともかく、今どきの全てが腑に落ちるように構成された観客に親切な映画と違い、
観る者に注意力と考えることを要求する映画です。

 さらにこの映画、観ると気が滅入る映画に属するというのが、
人によって好き嫌いが分かれる点でもあります。
「モンスター」や「火垂るの墓」などと同じで、なすすべなく転落していく人を描いており、
最後はぷつんと断ち切られたような終わり方。
何ともやるせなく、後を引くエンディングです。

 監督は「黄泉がえり」「どろろ」の塩田明彦監督。
監督は「サチ子こそが害虫であり、ゴジラである」と言っているそうです。
シニカルで悪意を含む「害虫」という比喩をタイトルにしたのは
脚本を書いた女性、清野弥生だといいます。
周囲の男をみな惹きつけ、不幸にしていくサチ子を
女性として許せなかったんでしょうか(^_^;)。
サチ子はただ存在していただけで、意図して人をおとしめようとした訳ではないのに。
本人に悪意は無くとも社会的に有害であるから「害虫」なんでしょうけれど。

 監督はこの映画の続編の構想も語っているそうですが、
「どろろ」の続編もままならなかったのに、どうなんでしょう?
実現したらすごいことです、私は「どろろ」の続編よりも観てみたいと思います。
                    (☆☆)
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by am-bivalence | 2010-12-08 23:12 | 人間ドラマ | Comments(0)

SCREEN115 17歳のカルテ

多感でバランスを失いやすい思春期のもう一つの姿に共感 参照サイト

 「午前10時の映画祭」を観るようになってから、往年の名画を劇場で観ることが面白くなり、最近は都内の名画座にも通うようになってしまいました。
今のお気に入りは、高田馬場の早稲田松竹
週替わりで2~3本立てをやっていて、料金は一般1300円と、とってもリーズナブル(^_^)。
2003年頃改装し生まれ変わったらしく、シートの足元が広く快適なのも嬉しい点です。
 その早稲田松竹で今週(10/9~15)は「17歳のカルテ」と「プレシャス」を上映しています。
「17歳のカルテ」は封切当時、恵比寿ガーデンシネマまで観に行って、お気に入りの一本になった映画でした。
 実は私のハンドル・ネーム「am-bivalence」はこの映画のエピソードから採っています。(ちなみに接頭辞としは劇中でも触れているようにambi-です)
当時なぜわざわざこの映画を観に行ったかというと、「エイリアン4」で観たボーイッシュでどこか儚げなウィノナ・ライダーに惹かれたから(笑)。
そんなミーハーな動機とは裏腹に、映画の内容は重くて心に残るものでした。

 簡単にあらすじを書くと、
1960年代ベトナム戦争や民権運動で揺れていたアメリカで、高校を卒業したスザンナは"不安で、頭痛を消したくて"ウォッカとアスピリンを一瓶飲み病院に運び込まれます。
この事件で彼女は境界性人格障害と判断され、そのまま精神病院に入院させられます。そこは心に問題があるとされた同年代の少女たちが収容されている病棟でした。一時的入院と思っていたスザンナはここで反抗的で反社会性病質とされたリサ、虚言症のジョージーナ、自分の顔に火をつけたポリーなどと出会い、2年間過ごすことになります。。。

 境界性人格障害とは、もともと神経症と精神病の境界にあるということで名づけられたのですが、いくつかの特徴を持った患者を指すようになりました。
境界性人格障害の特徴として、
 1)不安定な人間関係(親しくしていたと思うと急にののしる等)
 2)自殺企図、自傷行為、衝動行為(浪費、喧嘩、無謀運転、性的逸脱)
 3)慢性的な抑うつ気分、空虚感
 4)制御不能な激しい怒り
があるそうで、これらは頼っていたもの、愛したものに対する強い見捨てられ不安からくるといいます。
 なにやら一部自分のことを言われているような。。。
私は痛いのは嫌いなので、自傷行為にはちょっと理解が及びませんが、
その他は誰でも多少とも持ち得る感情のような気がします。
(ちなみにDVDの特典映像には未公開シーンとしてリサが手首に自傷行為をしていたエピソードがあります。映画オリジナルのエピソードで映画の中でも後半の展開に絡む割と重要なシーンなのですが、時間的な都合でカットされてしまったようです。)

 依存症、ネグレクト、自殺などシリアスな内容を扱った映画ですが、
全体のトーンは暗くなく、患者同士の連帯や友情を交え、時には笑わせてくれます。
これは映画の原作であるスザンナ・ケイセンの自伝小説「思春期病棟の少女たち」の雰囲気に影響されているようで、原作も暗くなりそうな話を軽妙なタッチでさらりと描写しています。
エンドタイトルでも流れる挿入歌の「恋のダウンタウン」は、今でも聞くと元気を貰える気がします。

 原題は原作も映画も"Girl, Interrupted"。
(しかし主人公は18歳のはずなのに何故「17歳のカルテ」なんだろう?)
この原題はフェルメールの絵画「演奏を中断された少女」から採られていて、人生の大切で楽しい時期を中断、隔離されてしまった著者のとまどい、無念さを簡潔に表しています。
著者がこの体験を冷静に振り返られるようになるには、
それなりに年月が必要だったそうで、本にしたのは40代になってからでした。

主演のウィノナ・ライダーはこの原作が好きでプロデュースもしています。
彼女自身、若い頃精神的に不安定になって一時入院した体験を告白していて、
彼女が時々見せる不安で脆そうな表情はそんな繊細なところからきているのでしょうか。
ウィノナにとってスザンナはぴったりな役柄ですが、
それ以上にはまり役だったのが、リサを演じたアンジェリーナ・ジョリーでした。
当時彼女はほとんど新人でしたが、今にして思うと反抗的で野性児のようなリサは、彼女にとって十八番のような役でした。
この演技でアンジェリーナ・ジョリーはアカデミー賞助演女優賞を獲得しました。
                      (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2010-10-13 23:29 | 人間ドラマ | Comments(0)