劇場で観た映画の覚え書き


by am-bivalence
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

カテゴリ:人間ドラマ( 42 )

SCREEN113 アイガー北壁

極限状況でのクライマーの執念と無念を見せるサスペンス佳作 公式サイト

 アイガー北壁と言うと思い浮かぶ映画が、
クリント・イーストウッドが主演・監督した「アイガー・サンクション」。
その「アイガー・サンクション」でも描かれているように、
アイガー北壁というのはちょっと変わった山です。
ヨーロッパ・アルプスの最難所と言われながら、観光のアクセスもよいのです。
アイガー北壁内にはユングフラウ鉄道のトンネルが通っており、
中腹のアイガーヴァント駅からは、一般観光客でも北壁からの眺望を楽しめます。
 また、山麓にはアイガー北壁全体を一望できるリゾートホテルがあって、
天気が良ければ、望遠鏡で北壁を登るクライマーを逐一観察できるのです。
「アイガー北壁」劇中のセリフにあったように、まさに”垂直の闘技場”。
 そんな環境がまだ北壁が未登攀だった時代に既に整っていたのを
この映画で知って ちょっと驚きました。

 「アイガー北壁」はヨーロッパ・アルプス最大の難ルート、
アイガー北壁の初登攀を目指す登山家達に起こった悲劇の実話を元にした物語です。
この事件はヨーロッパ・アルプスの登山者なら誰でも聞いたことのある有名な逸話だそうで、映画を観れば、確かにその劇的な物語が今だに語り継がれるだけあることが分かります。
「アイガー北壁」は山岳映画というジャンルにとどまらず、
登山を知らない人でも十分見ごたえのあるサスペンス映画の佳作にもなっています。

 1936年、ナチス・ドイツが勢力を拡大していた時代。
ナチスはヨーロッパ・アルプス最後の難ルート、アイガー北壁を初登攀した者に
ベルリン五輪(レニ・リーフェンシュタールがオリンピック映画の名作と言われる
「民族の祭典」「美の祭典」を撮った大会)で金メダルを授与することを決定、
この年、多くの登山隊がアイガー北壁に集まります。
ドイツ人トニー・クルツとアンディ・ヒンターシュトイサー組もその一つでした。
 彼らはドイツ代表のように注目されますが、
意外だったのは、彼らは誰の援助も受けていないことです。
彼らはハーケンを手作りし、少ない自己資金で登山するため、
交通費を節約して、アイガーまでの道のり600kmを自転車でやってきます。

 なぜ、「実話の映画化」でなく「実話を元にした映画」なのかというと、
映画の骨子に大きなフィクションが加えられているから。
どこがフィクションかは後述するとして、
事件の概要には、史実として伝わっているものに忠実で、
出来る限り再現しているようです。
ただどうしても事件の細部に不明な部分があり、推測で構成されたものがあって、
映画の中心部分にフィクションを入れたのは、どうせ虚構が避けられないなら、
いっそ映画向きにフィクションを加えて面白くしようということでしょうか。

 それにしても、死地に立ったクライマーの見せる生命力、
生還への執念は驚かされます。
 同じく実話を映画化した「運命を分けたザイル」や、
沢木耕太郎のノンフィクション「凍」もそうでしたが、
もう体力、気力を使い果たしたと思われてもなお、
彼らが死力を尽くす姿は心揺すぶられました。(☆☆☆)

*史実とフィクションに関すること(ネタバレ注意!)
[PR]
by am-bivalence | 2010-07-27 23:37 | 人間ドラマ | Comments(0)
 前半、親子の愛情あふれる触れ合いが微笑ましく、痛ましい 公式サイト

 2005年に自殺したフランスの映画プロデューサー、アンベール・バルザンをモデルに、
父親と娘たちとの交流、残された家族の立ち直る姿を描いた作品。
 映画の前半はプロデューサーの仕事に忙殺されながらも、
家族との時間を大切にしている父親グレゴワールを中心に展開します。
下の娘2人が「劇」として見せるニュースキャスターごっこを家族みんなで楽しんだり、
旅行先で訪れた教会の天井画を娘達にやさしく説明したり、
何気ない親子の触れ合いが愛情込めて描かれていて微笑ましく、
後半の展開を知っているだけにちょっと痛ましい気持ちになります。
 こういった描写があるから後半が生きてくるんですが。

 苦しい財政事情をなんとかやりくりして自転車操業していた映画プロダクションが、
金銭感覚に疎い映画監督が小切手を現金化してしまったことをきっかけに、
資金繰りが急速に悪化します。
スタッフとも険悪な雰囲気になったりし孤立していったグレゴワールは、
ついに自ら命を絶ちます。
 このあたり、ちょっと唐突で違和感を感じました。
自ら死を選ぶ人というのは、もっと前から「死」という選択肢のカードを胸の奥に隠し持っていて、いつ切ろうか逡巡しているような気がするからです。人には決して明かさずに。
もっとも、資金繰りが悪化するずっと前に冗談めかして
「資金難になったら自殺でもするか」というシーンはありましたけど。
 モデルになったアンベール・バルザン氏は普段は話し好きで社交的でしたが、
亡くなる5カ月ほど前から鬱を患っていたそうです。

 残された妻シルヴィアと3人の娘は嘆き悲しみますが、
プロダクションには何百万ユーロの負債と未完成の映画が残されていました。
悲しむ間もなくシルヴィアは借金を何とかして着手中の映画を完成させようと奔走します。
それがグレゴワールの遺志だと信じての行動です。
 気丈にもシルヴィアは残された遺族が一度は口にするであろう疑問を言いません。
それを率直に問うのが子供たちです。
「なぜ?」「どうして私達を残して?」

 お父さんは私達のこと思ってくれてなかったの?と言う幼い子に、
グレゴワールの友人はこう答えます。
「いつも君たちのことを考えていたよ。でも一瞬忘れてしまったんだ。」
ごまかさない率直な物言いは、彼女たちが事実をゆっくり受け入れていくしかないと思ってのことでしょうか。

 年長の長女は事情が分かるだけにもっと複雑で、
ふとしたことから父に隠し子がいた事を知りショックを受けます。
その事で父をなじる長女に対し、母は
「お父さんとの楽しかった日々を思い出して。父親の愛の深さを忘れないで。」
と毅然と言います。
 う~ん、確かにいい父親ではありましたが、
済んだ事とは言え浮気していた夫をそう擁護できるなんて、
父よりも母の愛の深さ、度量の大きさを感じてしまいます。
続けて母は
「死は人生の否定ではない。死は人生の数ある出来事のひとつ。」
とも言うのです。
 考えさせられる言葉ですが、この強さはどこから来るんでしょう。
気が強いと噂に聞くパリジェンヌの持つ強さなのか、
まだ20代の女性監督の理想像なのか。。。
                    (☆☆
[PR]
by am-bivalence | 2010-07-07 00:07 | 人間ドラマ | Comments(0)
この記事はブログのファンのみ閲覧できます

[PR]
by am-bivalence | 2010-07-06 23:53 | 人間ドラマ

screen110 ブタがいた教室

 食べることは他の命を犠牲にすること~その食育は大切だが、
愛情かけた動物を殺してはいけない
  公式サイト

 自分達が育てたブタを自分達で食べる、
新任小学校教師が担任学級で実施した実話を元にしたこの映画は、
投げかける食育と命の問題が、公開当時話題になりました。
この問題には私なりに答えがあったので、あえて観る気が起きなかったのですが、
自宅から歩いて10分の映画館で限定上映されたので、この機会に観てみました。

 劇中の子供たちのディスカッションには様々な意見があって、
それなりに考えさせられましたが、
映画を観終わっても、やはりこの問題に対する私の考えは変わりませんでした。
 食べることは他の命を犠牲にすることでもあるという"食育"は必要ですが、
愛情かけた愛玩動物を殺させてはいけないと思います。

 原作の教師は鳥山敏子氏の「鳥山実践」と呼ばれる食育に影響されて、
学級でブタを飼うことを思いついたそうです。
「鳥山実践」は生きたニワトリを生徒の手で殺させ調理して食べることで、
食糧や命の価値を考えさせるものです。
 人間含め動物は、生きていくために他の生き物を食べていかなければなりません。
他の命を犠牲にして、自分が生き長らえる、
これは真理であって、生き物である我々の原罪とも言えます。
現代社会はあまりにも食物を得る行為が簡単なため、
他の命を犠牲にして生きていることに無自覚になりがちです。
その意味で私は、実際に生き物を殺して調理し、
食べると言う行為がどういうことか自覚する、「鳥山実践」には賛成です。

 ただこの映画の教師は、食べるためにブタを飼うことを子供達に提案、実践しますが、
子供達はブタに名前をつけ、ペット感覚で飼育し始めます。
教師はそれを止められませんでした。
そこが間違いです。
名前をつけてはいけなかったのです。
教師は指導する立場にあるのだから、食育を始めるとき、
食糧とペットの違いをはっきりさせておくべきでした。
その場で一緒に悩んでどうするのでしょう。

 ペットとして飼った生き物に飼い主は愛情を注ぎます。
それは子供を育てるような愛情と変わりません。
そうして育てたものを殺すことができるでしょうか。
できない人間が普通です。
それを平然とできるような人間のほうが問題だと思います。
愛したものを殺さなければならない、
そんな二律背反した状況に人格形成途中の子供を置くのは、
当初の食育の意図とは別次元の問題であり、違うと思います。
私はそのような状態を受け入れさせるのは"歪んだ愛情"を生むような気がするのです。
例えば好きな人をいじめてしまうような、そんな歪んだ感情を。

 映画の中で子供達から、Pちゃんと、他の食肉用ブタと、
命に違いがあるのかという問いが出てきますが、
Pちゃんと、他の食肉用ブタははっきり違うのです。
愛情かけて育てた者の心には。

 最後には子供たちの議論が食べる食べないの問題から、
Pちゃんの面倒を最後までみないのかという責任論に
転化してしまっているのも気になります。

 ただ映画はこういった批判も承知で作られているようです。
冒頭、教師がこの計画を校長に説明する際の様子は、
軽い気持ちで始めているのが見て取れますし、
子供たちがブタに名前をつけるのに教師は躊躇し、
名前をつけることを聞いた教頭に批判させています。
 とすると、それを承知で出演した子供たちに同じ体験をさせた監督は、
ある意味罪深いことをしたものですが、
食と命の問題を改めて考えるには良いきっかけとなる映画ではあります。
                               (☆☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2009-04-16 23:20 | 人間ドラマ | Comments(0)
 ニクソン役フランク・ランジェラの好々爺としたタヌキぶりがすごいが、
これはニクソンの実像なのか
  公式サイト

 ウォーターゲート事件で失脚した後、
政界復帰をも狙って初めて単独インタビューに応じたニクソンと、
自分の資産も投じてこのインタビューに賭けたというフロストの
真剣勝負の舌戦が呼び物であるこの映画、
確かにインタビューやその前の出演交渉などの駆け引きは面白いです。
 脚本がうまく出来ていて、個々の駆け引きの勘所を
各陣営内での会話や、関係者の回顧インタビューと言う形で
解説しながら見せてくれるので分かりやすく、引き込まれていきます。

 すごいのはフランク・ランジェラが演じるニクソンのタヌキぶり。
好々爺としながら、議論の矛先を巧みにかわし、自分の功績をアピールする話術は
かえってニクソンという人物を見直し、好感?さえ持ってしまいます。
(ニクソン側に肩入れしがちなのは、フロストを演じているマイケル・シーンの眉毛が
ジャック・ニコルソンのようで好きになれなかったこともあります(笑))

 でもここで描かれているニクソンは、本当にニクソンの実像なんでしょうか。
私のイメージするニクソンはもっと生真面目で、
人好きされない人物のような気がするのですが。。。
(会ったことがないので、分かりませんけど(笑))

 この脚本を書いたのは「ブーリン家の姉妹」、「クィーン」、
「ラスト・キング・オブ・スコットランド」の脚本家ピーター・モーガン。
 「ブーリン家の姉妹」では史実と違っているところも多々あったとか。
「ラスト・キング・オブ・スコットランド」では主人公は(モデルはいたらしいですが)
架空の人物でした。
 「フロスト×ニクソン」も、プログラムにある映画評論家町山智浩氏の解説によると
事実関係が異なるところが幾つかあるようです。
 特に、クライマックスとなるインタビュー後半部の裏事情は
ニクソン側関係者の証言が映画と全く異なっていて、
このドラマの根幹に関わる部分が変えられているのです。

 どうもこの脚本家は、史実を忠実に描いて、
史実にないところを作家の想像力で膨らませるようなアプローチはせず、
実話から自分が面白いと思ったドラマイメージを拡大解釈し、
そのために事実と異なる脚色もかまわないと考えているようです。
「チェ1,2」のソダーバーグとは対極の作り方です。
 まあ、映画制作法としてはピーター・モーガン的方法がほとんどで、
「チェ1,2」のような映画のほうが珍しいんですが。。。

 とうわけで、そういった事情を踏まえた上で楽しむならば、
とても興味深い人物像を描いてみせるドラマでした。
                            (☆☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2009-04-09 23:10 | 人間ドラマ | Comments(0)
 青年の崇高な夢とその挫折を描いた、不朽の名作  公式サイト

 映画ファンなら誰でも、"生涯ベストワン映画"というものがあるのではないでしょうか。
"生涯"はちょっと大げさかもしれませんが、今まで観てきた中で
一番よかったと思う映画。。。私もあります。
 それがこの「アラビアのロレンス」です。

 映画「アラビアのロレンス」は、
T.E.ロレンスという実在の人物を描いた伝記映画であり、
砂漠の民を率いて戦った英雄物語であり、
第一次大戦での砂漠の戦闘を描いた戦争スペクタクル映画でもあります。
でも私は「アラビアのロレンス」は、"青春映画"だと思っています。
一人の青年が抱いた理想と夢、そしてその挫折を描いた青春映画だと。
(挫折する映画が好きだとは、我ながら屈折しているかとも思いますが(苦笑)。)

 ロレンスの描いた夢は、アラブ民族に自由と融和をもたらすことでした。
十字軍に傾倒し、若い頃から考古学調査で中東を巡り、
厳しくも美しい砂漠とそこに住む民に親しみを感じたロレンスは、
当時、大国に支配されていたアラブを独立させることに注力します。

厳しい自然の中で生きるベドウィンは、
砂漠で置き去りになった者は仕方なく見殺しにするしかなく、
部族間の争いも絶えず、殺人も厭いません。
 ロレンスはそんな現実に果敢に抗って、
砂漠に取り残された仲間を救出に行き、
部族抗争を抑えるために自ら手を下すことまでします。
潔癖なロレンスは、第一次大戦下の軍属でありながら流血を嫌っていたのですが。。。
 慕ってついてきた少年達を力及ばず砂漠で失った時には
少年のように心を痛めるロレンス。
(ただし、彼の反応は彼の別面も含めてであるのが後に分かってきます)
そんな人間像は「風の谷のナウシカ」のナウシカを見るようです。
(と言うより、ナウシカにロレンス像の影響が見えると思うのですが)

 ただこの映画のすごいところは、そこにとどまらず、
人間ロレンスを高潔な君子のままで終わらせなかったことです。
アカバ攻略までなら普通の英雄物語だったのですが、
映画は更にロレンスの複雑な内面に踏み込み、
そこからある種、普遍的な人間像も浮き出してみせるのです。

 例えば、映画最初でロレンスはベドウィンの案内人とこんな会話をします。
イギリスは肥えた土地に肥えた人々が住む国だと言うロレンスに対し、
ベドウィンが、でもあなたは太っていないと言うと、ロレンスはこう答えます。
 "No, I'm different.(そう、僕は違う)"
 何気ない会話ですが、
これはロレンスがちょっと変わり者である自分を自嘲しているとともに、
自分が人とは違う何者かなんだという、若者らしい気負いを
端的に表したセリフではないでしょうか。

(以降、ネタバレを意識せずに書いています。気にされる人は飛ばして下さい。)

 また映画冒頭ロレンスがやって見せる、火の着いたマッチ棒を持ち続けるという特技は、
私はロレンスの"精神は肉体の限界を超えられる"という信念を
表しているんじゃないかと思います。
これは映画後半で「水の上でも歩いてみせる」といった、
彼の超人願望とでも言うべき言動、行動に繋がっていきます。
それは異常さを通り越して、滑稽でさえあります。
 デラアでの事件で自分も普通の人間であると思い知らされた時、
その願望の反動が、彼が壊れていくきっかけにもなるのです。

 映画は更に彼の心の奥に潜んだ闇にも触れています。
部族間の争いを招いた部下を自ら処刑したことを、
後に彼はカイロで「処刑を楽しんでいた」と告白しているのです。
自分の奥底にある暴力性に戸惑うロレンス。
私にはそれは、彼固有の異常性ではなく、彼のイノセントさからくる、
自分にも本能的な暴力の衝動があったことへの恐れと思えるのです。
 高潔さと奥底にあるダークさ、自意識過剰、自己陶酔、
才気を自覚するがゆえの高慢さと、自身の全能感から起こす無謀な行動、
T.E.ロレンスという稀有で極端な人物像から、
一つの典型的な人間心理が浮かび上がってきます。

 ロレンスの挫折は内面的なものに加え、
社会の現実によって更に助長されていきます。
いつの間にか国家間の駆け引きに巻き込まれ、利用されるロレンス。
(このときのイギリスの二枚舌外交が後々の中東紛争につながっていく)
イギリスを差し置いてダマスカスに入城しても、
部族間のエゴを前にして、疲弊するロレンス。
 最後の戦闘では、「清潔だから」好きだった砂漠を血で穢し、
お気に入りの白い民族衣装を血まみれにするロレンスが痛ましいです。
 理想と現実の大きな壁(老獪な社会の壁)に挫折していく姿に、
年配の人なら60年代の学生運動を重ねたりするのではないでしょうか。

 「アラビアのロレンス」については、まだ語り尽くせませんが、
「アラビアのロレンス」は観るたびに別の見方ができて、新しい発見があります。
それはちょうど、優れた文学が読む年齢によって解釈が変わってくるように、
「アラビアのロレンス」も観る年齢によって見方が違ってくるようです。
名作です。
         (☆☆☆☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2008-12-25 23:57 | 人間ドラマ | Comments(0)

screen96 ブラインドネス

 人間はそこまで醜くないと信じたいが。。。  公式サイト

 日本人俳優二人の出演でも注目された「ブラインドネス」、
宣伝文句で"心理パニックサスペンス"と謳ってしまったので、
世界的に広がった新種の伝染病が引き起こすパニック映画と誤解してしまう人が多いようです。
 この映画では、人々が失明してしまう伝染病の正体は最後まで分かりませんし、
主人公がなぜ、ただ一人失明せずにいられるのかも全く説明されません。
 結局これは、極限状態で現れる人間の本性を見せる寓話なのですが、
ここで描かれる人間性がとても浅ましく、観ていて息詰まってしまうのです。

 隔離された失明者は人数の少ないうちはまだ秩序を保っていられましたが、
人が増えて収容所内の衛生状態が最悪になり、スラムのようになってしまったとき、
銃を手にして王を名乗る男が全てを支配しようとします。
 男が最初、盲人には全く価値の無い貴金属を徴収するのには笑ってしまいますが、
次に女性を要求しだした時の男達の反応は、なんともやり切れません。
貧困に窮してしまうと、そういう人間性も現れるのかもしれませんが。。。

 「シティ・オブ・ゴッド」で人殺しをなんとも思わないスラム・ギャングを描き、
「ナイロビの蜂」でアフリカの貧困を目の当たりにしたメイレレス監督には、
そのような人間性が身に染みてリアルと感じるのでしょう。
 でも人間は、もう少し賢明だという気がするのです。
無秩序状態からお互い納得できる秩序を作り出し、
尊厳のために命を賭けても抵抗するといった、理性的で高潔な部分です。
 ただアメリカのような先進国でさえ、
テロとの戦いと称して、石油利権を求めてイラクを侵攻したように、
私利のために力を行使していることを考えると、
人間の理性を信じようとするのも、空しくなることがあるのですが。。。

 ラストは主人公一人が不安を抱えながらも、希望が見える終わり方ですが、
重苦しい思いばかり残ってしまった映画でした。
                     (☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2008-12-05 23:59 | 人間ドラマ | Comments(0)
いかにもありそうな家族の形に、自身を投影してしまう小品  公式サイト

 「人生は、いつもちょっとだけ間にあわない」
まずこのコピーに、グッときました(笑)。

 兄の命日に集まった家族の2日間を淡々と描いたこの映画、
ドラマチックな展開があるわけでもなく、ごく日常的風景を追っているんですが、
会話の面白さもあって、2時間飽きさせませんでした。
 派手なアクションがあっても途中で眠くなるような映画があるなか、
これはちょっとすごいことかも知れません。

 出演者が樹木希林、原田芳雄、阿部寛、YOUと、個性の強い役者ぞろいで、
劇中の人物を見るというより、
演じている樹木希林、YOUを見ているように思えてしまうんですが、
とてもありがちな家族関係には、つい自分の家族を重ね合わせて観てしまいます。

 誰もが胸に何かしら隠しているのですが、
たまに本音を吐露しても、誰も聞いていなかったり、
途中で遮られたりして中途半端に終わってしまう可笑しさ、哀しさ。
このすれ違いが妙にリアリティーを感じさせます。

 この家族に影を落としているのが、事故で亡くなった兄。
できの良かった兄といつも比較されて鬱屈した弟、
そのせいもあって反発し合う父子。
普段は闊達で普通に振舞っている母も、
実は心の奥底で息子を亡くした喪失感を一番重く抱えていることが
次第に明らかになってきます。
残酷なことを笑みを浮かべながら冷静に語る母親がちょっと恐ろしく、
心の闇の深さを感じさせます。
 既にないもの、過ぎ去ったものに縛られているのは、
人間、案外多いんじゃないでしょうか。
それを"家族の歴史"、"人の歴史"というのでしょうけど。

 過去の延長上に生きているのは、この親子だけではありません。
弟の結婚した相手は子持ちの再婚者で、亡くなった前夫との息子の間には
前夫を含めた関係がまだ息づいているのです。
この関係の中にいずれ現夫である弟が溶け込んでくるであろうことが語られます。
 そうか、家族って"あるもの"じゃなくて、
"築いていくもの"だったんだと、改めて気付かされました。

わっと感動したり、ジーンと胸が熱くなって涙するような映画ではないんですが、
後からじわじわと効いてくる、ボディブローのような映画でした。
                            (☆☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2008-11-23 00:24 | 人間ドラマ | Comments(0)

screen89 おくりびと

 抑え目の演出が好感持てる良品  公式サイト

 今は自動車道ができて無くなってしまいましたが、
昔、母の実家には、裏の畑に先祖代々の墓地があって、
盆の法事などは、裏の畑まで親族一同が歩いていって焼香していました。
居間には仏壇がって、鴨居には亡くなった祖父、祖母の遺影が飾ってありました。
昔の日本には「死」は日常生活と裏腹にあって、溶け込んでいたように思います。

 でも現代の都市はどうでしょうか。
近所に葬斎場の計画が持ち上がると、周辺住民が猛反対したりします。
今の街は 快楽原則で出来ていて、
「死」のように不安・不快を感じさせるものは、慎重に拭い去られ、
極力排除しているように思うのです。

 「おくりびと」では納棺師という職業に就いた主人公が
その職業が原因で蔑まれたり、妻に出て行かれる描写があります。
 "人の不幸を商売にしている"、と思われるからかもしれませんが、
職業への偏見が生まれる一因には、現代の日常が快適優先で出来ていて、
「死」は忌むべきものであり、無意識に避けていることにもあるような気がしてなりません。
「メメント・モリ」って言葉が古代からあるように、誰でもいつかは死んじゃうんですけど。

 納棺師という職業があるとは知りませんでしたが、
映画パンフレットによると、どんな葬儀にでも存在するわけではなく、
地域、宗派によって遺体の扱いはいろいろなようです。
葬儀社によっては納棺の儀式がないような場合もあるとか。

 この映画を観ると 納棺師とは、
死者へ敬意を払い、遺体を辱めずに尊厳を守って、
厳かに親しい人との別れを演出する職業のように思えてきます。
まさに「安らかな旅立ちのお手伝い」。
 実際は主人公の最初の仕事のように、いろいろな遺体を扱うのでしょうから、
かなり泥臭い、大変な仕事なんでしょうけれども。

 映画としての「おくりびと」は、観ていると、
「お葬式」、「マルサの女」といった、かつての伊丹映画や、
「それでも僕はやってない」の周防監督の映画を連想させます。
知られざる仕事にスポットを当て、ハウツー的なものを盛り込んだ点です。
食事のシーンなどは、「ひまわり」での描写を思い出します。

 分かりやすいストーリーで、
伏線からこうなるんじゃないかという期待通りに展開するドラマは、
登場人物たちの感情の変化もほぼ自然な感じで、
すんなり受け入れられました。
 葬式という愁嘆場が舞台になるので、深刻になりがちな部分を
ユーモアで和らげています。
そして、この映画は基本的にハッピーエンドで、完全な悪人が出てきません。
 分りやすいプロットとユーモア、見終わってほっとしたような気持ちになれる、
そんな点が海外でも受け入れられたんじゃないでしょうか。

映画の中で
「生き物は生き物を食って生きている」
という台詞がありました。
 これって、もっと言ってしまえば、
”全ての生き物はいつか食べられるために生きている”
じゃないでしょうか。
 食物連鎖の頂点に立つとされる肉食獣も、
死ねばウジや微生物の餌になって分解され、次の命になります。
人が火葬されても、できた二酸化炭素はいつか植物に取り込まれ、
生命のサイクルに戻ります。
 我々が自分自身と思っている肉体さえも、
いつかは分解され、別のものになっていくのです。
 この世界にいつまでも自分のものというものは一つもなく、
全ては借り物なんです。

そう考えると、いろいろな物を所有しようとするって、
ばかばかしく思えないでしょうか?
                (☆☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2008-11-10 21:33 | 人間ドラマ | Comments(0)
 青年の行動に、今の若者はどこまで共感できるだろうか  公式サイト

 今回は、映画の感想というより原作の話が主になっています。
私的なことも混じり、かなり長文になってしまっているので、
映画情報を期待している方は、飛ばされたほうが賢明です。
 いきなりネタバレしていますし。。。

(以下ネタバレ)
 昨年の5月連休、私は一人、上高地でキャンプして過ごしながら、
一冊の本を読んでいました。
 アラスカの原野で腐乱死体で発見された青年が、どうしてそこにやって来たのか、
そこに来るまで何をしてきたのかを追ったノンフィクションです。

 最初この本を手にしたのは、放浪の果てに荒野でたった一人で野垂れ死ぬという、
異様な状況に興味を引かれてでした。
 私自身、その時一人でキャンプしていたように、
単独で山に登ったり旅行したりといったことをよくするので、
単独行での遭難や、事故には無関心でいられなかったのです。
 本を読んでいくと、青年がアラスカにたどり着くまでの経緯もさることながら、
明かされていく青年=クリスの人物像に
こんな人が実在したのかと驚かされ、惹かれていきました。

 クリスは比較的裕福な家庭で育ち、学業も優秀でした。
彼は誰にも好かれる好青年だったようです。
高校の頃はホームレス支援のボランティアをしたりする、
純粋で正義感の強いところがありました。
自分でこうと決めたら人のいうことを聞かない、頑固な面もあったようです。

 そんなクリスが大学を卒業すると失踪し、放浪の旅を始めたのは、
父親の不義を知ったことが大きく影響していました。
父親には別に妻がいて、彼には異母弟がいたのです。 
それが自分という存在そのものも揺るがしたのでしょうか。

 彼は労働を嫌っていたわけではなく、
人の嫌がる農場の重労働も進んでやっていたそうです。
ただ規則に縛られず、自由に行動するのを好みました。
 放浪の間、社会からはみ出した生き方をしている人々と知り合い、
より自由を求めて自然の中に入り、独学でサバイバル術を身に付けていきます。
そして、"その土地の与えてくれるものだけで生きよう"と
アラスカの荒野へ踏み込んで行くことになるのです。

 冒険、社会の中での生き方、いろいろ考えさせられるノンフィクションでしたが、
巻末の解説にショーン・ペンが映画化を企画しているとあったのを見て、
映画が日本で公開されたら観にいこうと決めていました。
 本のタイトルは「荒野へ」。映画「イントゥ・ザ・ワイルド」の原作です。

 映画に出てくるエピソードは原作にほぼ忠実です。
原作者は単独行をする登山家で、
原作では単独行の冒険でのリスクということの考察もあったのですが、
映画では放浪中に出会う人々との関わりや、
彼を放浪に駆り立てるものに重点が置かれています。

 映画では青年が流浪する理由を、
"真理"の探求とか、物質文明への反発のようにも描いていますが、
実際は家族を欺いていた両親への反発、
誰にも頼りたくないという独立心が根本にあって、
先鋭化していったのだと思います。
 紙幣やカードを燃やして自ら無一文になり、本名を捨てるのも、
物質文明への反発というより、親の資産に頼りたくないという独立心であり、
アラスカの無人の荒野を目指すのも、誰もいない場所で
誰にも頼らず一人で生き抜いてみたいことの現れでしょう。
 クリスの行動に、私は「火垂るの墓」の少年を思い出しました。
「火垂るの墓」の主人公は戦争という非常事態の中、親を亡くしますが、
親戚に頼りたくなくて無謀にも自分たちだけで生きようとし、悲劇の道を辿ります。
クリスの行動がある面青臭く、無謀に見えるのも
似たような稚拙な行動にも思えてしまうからでしょう。

 一方で、自然の中に帰って自然から得られるもので生きるというのは、
「ブラザー・サン シスター・ムーン」の聖フランチェスコも連想させます。
フランチェスコが野の小鳥を見て、彼らのように着飾らず、
自然の恵みだけで生きられたらと願い、出家する姿とも重なるのです。
クリスが一途な冒険者であるとともに、求道的に見えるのも、
そこに思想家のような姿勢があるからなんでしょう。

 ともあれ、クリスが彷徨し、見た風景、場所を
実際にスクリーンで見れたのは嬉しいことでした。
 主演のエミール・ハーシュは、「スピードレーサー」ではパッとしなかったのですが、
この映画では主人公のクリスを魅力的に演じています。

 最後に出会う老人とのエピソードは、原作では後日談があって、
クリスの死を知った老人の想いが胸を締め付けました。
ここは原作でも、最も印象的なエピソードなので、
是非、原作を読んで確かめて欲しいと思います。
                       (☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2008-09-19 23:40 | 人間ドラマ | Comments(2)