劇場で観た映画の覚え書き


by am-bivalence
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カテゴリ:人間ドラマ( 42 )

screen76 西の魔女が死んだ  公式サイト

 盲導犬の育成にパピーウォーカーという制度があります。
生後2ヶ月の子犬を里親に預け、1才になるまで育ててもらう制度です。
この間は基本的な生活ルールを躾けるだけで、特殊な訓練をすることはありません。
可愛がられることが大切なのだそうです。
愛情を一杯受けて育つことが、人間に対する根本的信頼感を生み、
優秀な盲導犬になるといいます。

 人間も同じではないでしょうか。
厳しく躾けられることも時には必要ですが、
幼い頃に自分をそのまま肯定してくれ、愛情を与えてもらった体験があれば、
人に対する信頼感を奥底のところに持ち続けているように思うのです。
でも親には 社会に適応できるよう躾をする義務があるので、
無制限に愛情を与えることは出来ません。
それが出来る存在が、おじいさん、おばあさんではないでしょうか。

 「西の魔女が死んだ」の西の魔女:おばあちゃんは、
登校拒否になったまいを全面的に受け入れてくれます。
おばあちゃんは
 「まいのような子供が生まれてきてくれて、私は本当に嬉しい」
と、まいをあるがままに肯定してくれ、だめな子扱いすることは一度もありません。
母親がまいを「扱いづらい子」と、ネガティブに接してしまうのと対照的です。

 おばあちゃんが"魔女修行"として教えてくれたこと、
  *日常の雑事を面倒と思わずにこなす、
  *規則正しい生活をする、
  *よく体を動かす
といったことは、「脳が冴える15の習慣」によると、
脳科学的にも頭の働きを保つのに良いらしいです。
  *何でも自分で決める
というのも、ボケ防止などには大切らしいです。
まいの弱った心にもいい効果を与えたんでしょう。

 正直に言ってしまうとこの作品、映画としては凡庸です。
"予算をかけたTVドラマ"といった印象を拭えません。
 それでも映画を観たあと、自身を振り返って、
日々の雑用を億劫がらずに、怠惰な生活を改めねばと、
反省させられたのでした。
                   (☆☆☆)

(「おばあちゃんの家」のロケセットが09年年明けまで、ロケ地清里で公開されています。
劇中ラストで大きな意味を持つガラスに残されたメッセージも展示されています。
 映画を気に入った人、原作ファンは訪ねて見てはいかがでしょうか。)


screen78 百万円と苦虫女  公式サイト

 この映画、タイトルや予告編で「転々」や「めがね」のような
ゆるいコメディかほのぼのした癒し系映画と思って観ると、
肩透かしを喰らいます。
映画前半、コメディタッチの描写もありますが、
たなだゆき監督の描く世界観は、結構スパイシーで、
醒めた視点だからです。

 例えば、主人公鈴子がひょんなことから前科者になってしまう経緯は、
いい加減な友人のせいで面識もない男とルームメイトになってしまい、
つまらぬイザコザから突然、男に訴えられるというものです。
理不尽な仕打ちです。
 鈴子の弟も学校でいじめにあっていて、
ただじっと耐え続けるのですが、ついに反撃すると、
暴力沙汰を起こしたと大問題にされます。
これまた理不尽な仕打ちです。

 そんな不条理な世界に対する鈴子と弟の姿勢は対照的です。
弟はいじめに耐えながら共存しようとし、
主人公は人間関係が込み入ってくると、ひたすら逃避しようとします。
それでも二人とも世界から受ける仕打ちは理不尽なのです。

 劇中の
「自分探しじゃない、自分はここにいるから」
「親しい人には本当のことを話しちゃいけないと思ってた」
というような台詞も、醒めた視点の中にハッとさせられるものがあります。
 最後は、鈴子が生き方を少し変えていこうと希望を持たせるような展開ですが、
ラストの決着の付け方は、"現実はドラマのようにはいかないんだよ"と言っているようで、
やはり監督の浮かれていない醒めた見方を感じてしまうのでした。
                    (☆☆)
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by am-bivalence | 2008-08-20 00:00 | 人間ドラマ | Comments(0)
 仕事をするとはどういうことかを見せてくれる力作  公式サイト

 突然、目の前に大きな仕事が現れたら、人はどうなるか。
犠牲者数で史上最悪の航空機事故となった、
日航ジャンボ機墜落事故を追う地方新聞社の人間模様を描いた本作は、
普段、身を粉にして働いているビジネス・パーソンには
身につまされる映画ではないでしょうか。
 なにしろ、墜落事故報道の全権を任された主人公が遭遇する軋轢は
組織で働く者にとってリアルすぎるのです。

 販売局と編集局に象徴される組織間の対立、
過去の栄光で今の地位を維持している上司、
同期や上司から受ける妬み、上層部の派閥争いといった、人間関係、
上層部の都合で部下の功労をつぶされ、報いてやれない口惜しさ、
一人で重大な決定をしなければならない孤独、
おまけにありがちですが家庭内までギクシャクして、
親子関係もうまくいっていません。
キレイ事の「課長○耕作」とは違い、とても泥臭いです。
そして、それら一つ一つを"リアル”と感じてしまう自分の、
サラリーマンの業(笑)。
まあ、これほど露骨な職場はそうないと思いますけれど。

 ネガティブな面ばかりではありません。
スクープを追う仕事仲間との連帯感、
いい仕事には無言の賞賛をしてくれます。
対立していた上司と飲んで腹を割って話すことで
いつの間にか関係が改善していたり。。
そして、誰もが自分の仕事に対して責任感や自信と誇りを持っている。
ダーティな仕事のように描かれている販売局長までもが、です。
熱いです。
 これを観て目頭が熱くならないオヤジはいないでしょう(笑)

 また、「クライマーズ・ハイ」は
インテリやくざな新聞業界の実態も見せてくれます。
独裁的で秘書にセクハラしている社長、
新聞を売っているのは自分達で、
記事の内容など、どうでもよいと思っている販売局長など。。。
文化的なイメージのある新聞社のダークな面が興味深いです。

 クライマーズ・ハイとは、岩登りに集中するあまり、
異様な高揚状態になることで、
この時は恐怖を忘れ、自身の危険な状況も気にならなくなるそうです。
 原作を読んでいなかったので、
最初は、記者が墜落現場を探して、
がむしゃらに山中を彷徨する話なのかと思っていました。
 しかし、この物語の主人公悠木は日航事件全権ディスクなので、
彼自身は一度も現場に行かず、編集室で取材班にを指示し紙面を作っていくのみです。
そして部下がスクープネタを掴んだとき、
悠木は密かに部下に裏を取らせ、スクープを打とうと画策するのですが。。。
ここがなかなかスリリングで、
スクープの裏を取るとはこうするのかと、感心させられました。
 映画パンフにはクライマーズ・ハイについて、こんなセリフが載っています。
  「解けた時が怖いんです。
  溜め込んだ恐怖心が一気に噴出して、一歩も動けなくなる。」
このセリフと映画クライマックスで、タイトルの意味を納得できた気がします。
                        (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2008-08-03 20:13 | 人間ドラマ | Comments(2)

screen70 ヒトラーの贋札

 重い史実にフィクションを加えエンターテイメントにしたサスペンス 公式サイト

 (以下、ネタバレ)
 この映画はエンドタイトルの最後で原作者について触れています。
事前になにも情報を持たずに観ていたので、
その名前を見てちょっと驚きました。
原作者が映画の主人公で好意的に描かれていたサリーでなく、
収容所でトラブルメーカーになっていたブルガーだったからです。

 この映画は、実際に収容所で贋札造りに加担させられた
ブルガーの体験記を基にしていますが、
いろいろ映画的にフィクションを加えているようです。
原作を読んでいないので、詳しくは分かりませんが、
映画プログラムにブルガーのインタビューが載っていて、
その中でフィクションの部分について触れられています。
 インタビューを読むと、映画は基本的に史実ですが、
収容所内のエピソードの幾つかはフィクションであるのがわかります。
 実際のブルガーは映画で描かれたように
あからさまに抵抗したわけではないそうで、
そんなことをしたら、すぐ殺されていたと語っています。
 この辺りに、映画の意図が伺えます。
自分達が生き延びる事と、贋札によってナチに協力することの
ジレンマを強調したかったのでしょうが、
実際の収容所生活は、偽造がナチへの協力になることが分かっていても、
生き残ることに懸命で、悩む余地はなかったのでしょう。

 また、収容所を解放したのはアメリカ軍だったそうで、
ドイツの敗戦にまぎれてユダヤ人収容者が蜂起するのもフィクションのようです。
自分達がユダヤ人である証拠に識別番号の刺青を示すのも
うまい演出、ということでしょう。
 ナチ支配下では非協力的なブルガーが
仲間を危険に曝していると非難されていたのに、
開放後はナチに抵抗した勇士として祭り上げられるのも、
戦後の混乱や人間の変わり身をよく現しているように思います。
 史実にフィクションをブレンドして、サスペンスフルな映画として観せてくれました。
                                  (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2008-06-21 17:39 | 人間ドラマ | Comments(0)
 目的のためにはプライドも捨てる男の執念と孤独  公式サイト

 昔、「ダラス」ってアメリカTVドラマがありました。
テキサスの石油王一家内での愛憎劇なんですが、
一家の中心となる男、JRのワルぶりが売りでした。
と言いながら、私はほとんど観たことなかったんですけど。。。(^^;
石油業界では、JRのような強引な男はさほど珍しくないようです。

 石油採掘は利権と巨額の資金が動く、生き馬の目を抜くビジネス。
かなりアクの強いツワモノ達がひしめいているらしいです。
そういえば、「アルマゲドン」で彗星を破壊しに行く男達も石油掘削業の荒くれでした。
 だから、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」の主人公ダニエル・ブレインヴューが
強欲ぶりが喧伝されても、それほど意外性はありませんでした。
ましてブレインヴューは、石油の前に金を掘っていた正真正銘の山師であり、
成功への執念が人一倍強くても不思議ではありません。

 しかし宣伝ではダニエル・ブレインヴューが欲にかられて
人間性が変わっていくような印象を受けますが、
実際に映画を観ると、私にはブレインヴューが自分を見失っていくような
物語には見えませんでした。

 確かにブレインヴューは強引で、時に気性の荒さを見せます。
目的のためにはプライドさえ捨てる執念を持っています。
でも彼のスタンスは最初から一貫していて変わることがなく、
意外にもマトモな人間に見えるのです。
特にダニエル・デイ=ルイスが演じると、飄々としたキャラクターが付加して、
とんでもないことをしても、どこか憎めない男のように感じてしまいます。
(私は彼を見て、無責任男の植木等を連想してしまいました。)

 それに、掘削中の事故で耳が聞こえなくなった息子を、
ブレインヴューが冷酷に見捨てるように言われていますが、
劇中、最初に裏切ったのは息子の方です。
気性の激しいブレインヴューにしてみれば、
精神的に錯乱していたとしても、愛する身内の背信行為が
許せなかったのは当然でしょう。
 これは腹違いの弟を名乗る男に対しても同様で、
裏切られたと判れば、彼は言った通りの報復をしたのです。

 ブレインヴューは自分の欲望にとり付かれ、他人を全く信じなくなった男ではなく、
むしろ、信頼できる身内を欲して裏切られた、孤独な男に見えてくるのです。
その孤独は「ジャイアンツ」の石油成金、ジェット・リンクにも共通したものでした。
                               (☆☆)
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by am-bivalence | 2008-06-06 21:53 | 人間ドラマ | Comments(0)

screen62 つぐない

 最後につぐないの意味を考えさせられる 公式サイト

 このところベストセラー小説の映画化作品ばかり観ていますが、
この映画は原作を読んでいません。
でも本作は映画最後のどんでん返しが秀逸と評判だったので、観てみました。
 以下、ネタバレしないように書きますが、
観ていない人には何を言っているのか分からないかも。。。
(って、いつものことか)

 確かに映画最後に、この物語のある意外な真相が明かされ、
”つぐない”とは何だったのか、本当の意味が判ります。
映画の冒頭から響いているタイプの音は
そういうことだったのかと、納得しました。

 このどんでん返し、素直に受け止めれば
ああそうだったのかと、感動できるでしょう。
償いようの無くなった過去を贖罪する手段としては、
こんな方法しかなかったかも知れません。

 でも、と、疑問がもたげてきます。
これが本当に贖罪になるのかどうか。
ひねくれた見方をすれば、
これは自身の罪でさえも作品の糧にしてしまったとも取れます。
償えない罪を償うというジレンマ、
この解はそう簡単には出ないようです。

 また、映像的にはあまり評判の良くない戦場のシーン、
確かに作品のテーマにはあまり関連ないシーンですが、
5分以上の長回しシーンは実験的で面白く、
私はそれなりに楽しめました。

戦場の長回しシーンといえば印象的だったのが
「トゥモロー・ワールド」でしたが、
「トゥモロー・ワールド」が戦場を体感させてくれたのに対し、
本作は打ち上げられた帆船や、観覧車など
戦場とは思えない風景が超現実的で、
幻想的で混沌とした世界に踏み込んだ感覚を受けました。
                   (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2008-05-01 00:01 | 人間ドラマ | Comments(2)
一人称の主観映像が主人公の孤独を追体験させる 公式サイト

 映画にしろドキュメンタリーにしろ、
「闘病もの」ってあまり好きじゃないんです。
 あからさまに、お涙頂戴パターンが多いですし、
障害や難病に苦しむ人に対して、同情というエセ共感をするのは、
そういう境遇でない自分に安堵する裏返しのようで、
無礼で傲慢のように感じてしまうのです。
 うがち過ぎでしょうか。

 ただこの作品に興味を持ったのは、映画として評判が高かったこと、
北村浩子さんのポッドキャスト番組「books A to Z」
原作の紹介を聞いてでした。
原作が粋でユーモアのセンスに富んだものだったからです。

 原作者ジャン・ドミニク・ボビーはファッション誌の編集長だっただけあって、
ダンディで、女性関係も華やかな人だったようです。
 原作のエッセーは、絶望、苦悩、悲しみといったことを
ほとんど直接表現することはせず、ユーモアとウィットで包んで
変わり果てた自分を笑い飛ばそうとさえします。

 例えばある日、ジャンはガラスに映った自分の姿に気付きます。
麻痺して醜くゆがんでしまった自分の顔を見て、
愕然とした彼の反応はこうです。
”僕の中に引きつるような大笑いがこみ上げてきた。
災難に次ぐ災難の、最後の一撃をくらって、
もう何もかもが冗談だと考えるしかなかった。”
そして、彼はこう結びます。
”笑いに笑った。涙があふれ出すまで。”

 また、彼がまばたきによるコミュニケーション法で、
文章を綴る動機となったのは、友人達が自分を
”植物人間”と言っていると知ったからでした。
”僕という存在はもう、人間社会よりも青物市場のほうに
属しているのだ”と思ったとき彼は、
”自分の知能はまだゴボウより高いのだと証明”するために、
以前の知人達に宛てて手紙を出すのです。

 前回に引き続き、映画の感想なのか、
原作の紹介なのか分からなくなってきましたが、
映画はジャンが病院で目覚めるところから始まります。
カメラがジャンの目線になっていて、
最初ピントがなかなか合わず、視野も限られています。
そんな”一人称映像”が映画冒頭から15分間続くのです。
観客は否が応でも彼の置かれた状況を体験していきます。
独白で語られる主人公の気持ちが、周囲とちぐはぐなところが
彼の陥った状況を良く表していて、彼の孤独を浮き出せています。

 可笑しいのが、そんな状況の中でも彼が、
二人の美人療法士と面会すると、彼女の胸ばかり見ていること。
さすが、プレイボーイのフランス人です。
 ただこの”一人称映像”、どこか既視感があると思っていたら、
後で思い出しました。「ロボコップ」です。
マーフィがロボコップとして蘇生するシーンも
同じような一人称視点でした。

 原作よりも映画は、自分の肉体に閉じ込められてしまった者の
悲哀と孤独に、より焦点をあてています。
 また、この映画にはジャン以外にも閉じ込められてしまった人間が
二人登場します。
足が悪くてアパートから出られなくなったジャンの父親と、
ベイルートで拘束され何年も投獄されたという友人です。
監督はジャンの陥ったような悲劇を、病気とだけに限定していないようです。

 ジャンは自分を喩えるのに「目」か「潜水服」かと考えて、
「潜水服」としました。
潜水服なら、いつの日か脱いで、
自由を取り戻せるかもしれないという思いがあったのでしょうか。
                          (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2008-04-17 00:38 | 人間ドラマ | Comments(0)
「美しい友情物語」とは言えない、後味の悪さ 公式サイト

 この映画の原題は「The Kite Runner」。
主人公アミールの誠実な「友人」だったハッサンが、
アフガニスタンでの伝統的遊び、凧合戦で、
糸を切られて飛んでいく凧を追いかける名人だったことから付けられています。
 邦題の「君のためなら千回でも」はハッサンのセリフから引用しており、
原作の邦題も当初「カイト・ランナー」だったのが、映画公開にあわせ改題されたそうです。
 この邦題、映画を「美しい友情物語」と思わせるために付けられたようですが、
私には美しい物語のようには見えませんでした。

 確かに「友人」のハッサンは主人公に対し、
あくまで忠実であり、立派な少年です。
それに対して主人公アミールは自分勝手で、
彼の行動が理解できず、感情移入できなかったのです。

 アミールとハッサンは主人の息子と使用人の息子という関係。
ハッサン自身は否定しているものの、
ハッサンはアミールに召使のように従っていて、
大前提として、二人の間には主従関係が見え隠れします。
純粋な友人というより、主人と従者の信頼関係のように思えてしまうのです。

(以下、ネタバレ)

 ひどいのはアミールのハッサンに対する仕打ちで、
新年のお祝いで街を挙げての凧合戦の日、
ハッサンがアミールの命令を忠実に守ろうとして、
街角でいじめっ子にひどい暴力を受けてしまいます。
それをアミールは見て見ぬ振りをしてしまうのですが、
それだけなら勇気が無かったというだけで、
まだ同情の余地があります。
 しかし、アミールはその後ハッサンを、
あろうことか、いじめっ子に無抵抗だった弱いやつと軽蔑し、
嘘をついて親子共々家から追い出してしまうのです。
このアミールの心理は、私には理解できません。

 その後、内戦下のアフガンでハッサンが死んだことを知り、
生き残ったハッサンの息子を救出しようとするアミールの行動も、
ハッサンに対する"つぐない"から出た行動のようには思えないのです。
 なぜならアミールは父の友人から、ハッサンが自分と腹違いの兄弟で、
ハッサンの息子は主人公の甥に当たることを聞かされ、
やっと救出に行く決心をするからです。
 血縁でなければ、助けに行かなかったのか?
とつっこみたくなるところです。
それは命懸けで行くのですから、
「友情」だけではそこまで出来ないでしょうけど。。。

 ハッサンの息子はタリバンの虐待でひどいPTSDを負ってアメリカに来ます。
アミールがつぐないをするとしたら、これからでしょう。
                          (☆☆)
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by am-bivalence | 2008-04-04 00:30 | 人間ドラマ | Comments(0)
 空想が生きていく力になる少年少女の絆を描いた秀作 公式サイト

 誰でも子供のころ、秘密基地を作って遊んだ覚えがあるのではないでしょうか。
男の子ならウルトラマンごっことか、仮面ライダーごっことかで遊んだことも。
(例えが かなり古いですが。。。)
 でも、"ごっこ遊び"で自分がスーパーヒーローやお姫様になれるのも
たいていは小学校低学年ぐらいまで。
大きくなると気恥ずかしくなって、そんな遊びはしなくなるものです。
 それが "分別がつく" ということなのでしょうが、
それは逆に、"想像の自由さを失っている" とは言えないでしょうか。
 この映画はそんな自由を失くさなかった少年少女の物語です。

 予告編を観ると、この映画は子供達が自分の空想世界に入り込む、
「ナルニア国物語」や、「パンズ・ラビリンス」のようなファンタジー映画かと思ってしまいますが、
実際は全く違います。
 ファンタジーのようなシーンもありますが、
それはあくまで彼らの主観を視覚化したもの。
 この映画は、想像力豊かな少年と少女の交流と絆を描いた秀作でした。

 主人公のジェスは4人の姉妹がいる、大家族の一人息子です。
女ばかりの中で、居心地の悪さを感じ、
得意な絵を書くことで気を紛らわせています。
 大家族のジェスの家庭は経済的にも苦しく、
現実に煩わされている父親はジェスに厳しく当たりがちです。

 そんな鬱屈とした日常を送っていたジェスが、
引越してきた空想好きで活発な少女レスリーと出会い、
次第に生き生きとしてくるのです。
 エキセントリックな二人は、周囲から変わり者扱いされますし、
学校にはいじめっ子もいます。

 ままならない現実の憂さを晴らすように、
彼らは自分達の想像の国テラビシアを造って遊びますが、
それはうまくいっていない現実からの逃避ではありません。
想像の中で、いじめっ子を模した敵と対峙したりすることで、
現実に適応していく訓練の場となっているのです。

 そんな甲斐もあって、現実は少しづつ良くなる兆しが見えるのですが、
突然、二人につらい事件が起こります。
受け入れがたい事実にジェスが現実否定したりする描写には無理がなく、
あざといお涙頂戴ドラマとは違うのが素晴らしいと思います。
これは、原作のモデルとなった原作者の息子本人が
脚本に関わっている効果でしょうか。
周囲の暖かい支えも、意外な人が意外な面を見せていて、
人物描写も細やかでした。

 ラストでタイトルの意味が判るのも、良くできていて、
親子で十分楽しんで感動できる映画ですが、
興行的にはもう一つのように見えるのが残念です。
「アース」のように思い切って吹替え版を主に
公開したほうが良かったのではないでしょか。
                 (☆☆☆☆)
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by am-bivalence | 2008-02-14 22:04 | 人間ドラマ | Comments(2)
 ラストのピアノ演奏がこの映画のアイデンティティー 公式サイト

 ピアニストを扱った映画はこれまでも幾つか観てるんですが、
実話を元にした「シャイン」や「戦場のピアニスト」が秀作だったのに対し、
完全なフィクションの「海の上のピアニスト」は
映像・イメージ先行で、リアリティーを度外視した分"作り物"感があって、
私としてはもう一つ入っていけない映画でした。
 ピアノを弾けない者にとってピアニストというのは
神がかり的な、何か崇高なものを内に秘めているように
イメージさせてしまうのでしょうか。
 監督のイメージから生まれたこの「4分間のピアニスト」にも、
そんな"作り物"感を感じてしまいます。

 リアリティーがないというのではありません。
ピアノ教師と囚人となっているピアニストの抱えているトラウマは
彼女らの人生、姿勢に大きく影響していますが、
お互いにそれを知ったからといって和解しあうわけでもありません。
彼女らのの関係はあくまで平行線です。
人間、そう簡単には変わらないのです。それが現実。
ハリウッド映画にはない、ヨーロッパ映画らしい描き方です。

 それでも、彼女らのトラウマが深刻過ぎて現実味がないのか、
どこか描写が表層的なのか、
”作り物のドラマを観ている”感を持ってしまうのです。

 ただ、映画のタイトルにもなっているラスト4分間のピアノ演奏、
このシーンは人によって賛否が分かれるようですが、
ここにこの映画のアイデンティティーが凝縮されていて、
私は良かったと思います。

(以下、ネタバレ)

 クライマックスの演奏はピアノ演奏という概念を超えた、自由奔放なものでした。
それはジェニーの自由の表現だったように思います。
ピアニストとして再起させようと裏で画策する養父への反発、
クラシック以外は低俗な音楽と決め付けて、
自分の型にはめようとするクリューガーへの反抗、
そういった想いを込めて、自分を解放するための演奏でした。

自由な精神を囚人が表現するというアイロニーも、
面白いんじゃないでしょうか。
           (☆☆)
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by am-bivalence | 2007-12-05 22:36 | 人間ドラマ | Comments(4)
 古き良きイタリア映画へのオマージュ  公式サイト

 この映画、死んだはずの母親が生きていた秘密とは。。。という
ミステリー仕立てのプロットが気になって観てみたんですが、ちょっと期待外れでした。
 母親やその娘ライムンダの抱える秘密が途中でほぼ予想できてしまうので、
ミステリーとして観るには意外性がありません。

 映画の最初、ライムンダの娘が父親をはずみで殺してしまいます。
ライムンダは夫の死体を密かに処分しようとするので、
ドラマはサスペンスに向かうのかと思いきや、
後半は死んだはずの母親のことがドラマの中心になり、
夫の死体はどうでもよくなってしまいます。

 夫の死体を閉鎖したレストランの冷蔵庫に隠したことから、
ひょんな拍子で死体を冷蔵庫に入れたまま、
勝手にレストランを営業することになるシュチュエーション。
 ヒッチコックが好みそうなブラックコメディタッチなんですが、
いかんせん、ペネロペにコメディアンヌの才が無いので、これも中途半端。

 そう、この映画、ドラマがあちこっちにふらついて、中途半端な感じがするのです。
ラストの母とライムンダの和解も、感動するには盛り上がりに欠けます。


 良かったのは、ライムンダを筆頭にした女性達の逞しさ、したたかさでしょうか。
監督が「女性」というジャンルの映画が撮りたかったと言っているように、
主要登場人物はほとんど女性ばかりです。
 かといって、宮崎アニメのヒロインのように、女性を神格化している訳でもありません。
部屋に隠れている母親の気配を、ライムンダは母のオナラの臭いで気付いたりするのです。

 生活力旺盛なライムンダは、閉鎖しているレストランを
無断で営業してお金を稼ぐ機会を逃しません。
 ストーリーに絡んでくる主な男性は、ライムンダの父と夫の二人だけですが、
この二人がどうしようもない男で、女達の逞しさと対照的です。

 この生活に追われながらも逞しい生命力を見せるラテン系女達は、
まるで昔のイタリア映画を観ているようです。
 昔、タモリがイタリア大使館でやって見せてバカウケしたというイタリア映画のイメージ、
朝遅く起きてきたぐうたら息子に、スープをかき混ぜながら口うるさく小言を言う、
肝っ玉かあさんのイメージを連想させるのです。
 レストランを開くのに足りない材料を、近所の知り合いに頼んで譲ってもらうといった、
近隣や親類の結び付きが強いのも 現代では失われてしまったもので、
昔の映画を観るようです。

 監督はペネロペ・クルスに、ソフィア・ローレンなどの往年のイタリア名女優を
参考にするよう、言っていたそうです。
 そんな女性像を現代に描き直した、
これは監督のイタリア映画へのオマージュなんでしょうか。

 女性たちは、ただ逞しいだけではありません。
ライムンダが死んだダメ夫を埋めた場所は、
実は生前、夫が好きだった場所だったことが後で判ります。
ちらりと見せる、そんな女の度量の広さに、はっとさせられます。


 故郷の村への行き帰りに、風力発電機の風車が立ち並ぶ風景が度々出てきます。
なんでだろうと思っていたら、故郷の村というのはラ・マンチャ、
風車に立ち向かったドン・キホーテの出身地でした。
                          (☆☆)
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by am-bivalence | 2007-10-05 21:27 | 人間ドラマ | Comments(2)