劇場で観た映画の覚え書き


by am-bivalence
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SCREEN129 ニーチェの馬

 生きることは"苦役"なのだろうか 公式サイト

 今年最初に観た映画はT田馬場W稲田松竹の2本立てでした。
そのうちの1本が、この「ニーチェの馬」。 観終わった後の正直な感想は、
 "新年早々、こんな重たい映画を観てしまうなんて。。。"
でした。
ユーモアなど全くと言っていいほど無く、世界がじわじわと破滅に向かって行く閉塞感に押し潰されそうになる映画だったのです。
この閉塞感は私を鬱な気分にさせてくれました(苦笑)。
これほど鬱屈した後味を残した映画は、ラース・ホン・トリアー「メランコリア」で絶対的絶望とそれに対峙した時の人間模様を観せられて以来でした。

 この映画が紹介される時はタイトルにもなっているニーチェ晩年のエピソード、
働くのを拒んで鞭打たれている馬にニーチェが泣きながら抱き付き、発狂したという逸話が紹介され、それにインスパイアされて映画が出来た云々が言われます。
映画冒頭にもその逸話がティロップされますが、実際のところ、映画を観ている間はほとんど逸話を気にする必要はないと思います(笑)。
劇中、馬は出てきますが、この馬がニーチェの馬だとは一言も言ってませんし。。。
 この映画の構成はシンプルで、農夫の父と娘が繰り返す生活を6日間ずっと追い続けるだけです。
映画全体の雰囲気は予告編から受ける印象そのまま。
白黒の映像に重苦しい管弦楽のBGMが被さり、戸外は常に強風が吹き荒れています。

 この映画を観ていて感じさせられるのは”生きていることは苦役である”ということです。
戸外に吹き荒れる強風は水を汲みに行くことさえ困難にし、親子の生活を妨げます。
親子は朝起きては着替え、水を汲み、薪割りなどの労働をする生活を繰り返します。
父は右腕が麻痺しており、不自由な体を娘に補助してもらい着替えなければなりません。
毎日の食事は茹でたジャガイモ1個だけという極端に簡素なもの。
そこに喜びは無く、ぎりぎりの生活をただ義務的に日々続けているような日常です。
 それは極限まで切り詰められた人間の生き様、さらには、生命の本質をも象徴しているように思えます。
ただ生まれ、生き、死んでいく生命のありようの象徴です。

 ちなみにこの映画は観る者にも"苦役"を強いるようです(笑)。
普通の映画なら90分で終わってしまうような内容を2時間34分という長尺で、
繰り返す日常を延々と見せられます。
しかも全編で30カットしかないという長回しシーンを注視し続けなければならないのです。

 ただ、父と娘の6日間は全く同じ日々では無く、少しずつ"何か"を失っていきます。
やってきた隣人には世界がひどい有様になっている噂を聞き、
馬は何故か働かなくなり、何かに脅えたようで餌も食べなくなります。
やがて井戸も涸れ、ついには信じがたいものまで失って窮地に陥ってしまうのです。
 何かを失っていく世界、これは"老い"や、生物が死へ向かって行く命の終焉を象徴しているようです。
老いていくというのは今まで出来ていたことが出来なくなっていくことであり、
個体にとって死とは、「ドニー・ダーコ」で看破されたように、世界の終りと同義なのですから。
この映画が6日間の出来事であるのも、神が6日間で世界を創ったことに対比させているそうです。

 そしてラストシーンでの父親の行動。
その姿をどんな状況でも諦めない希望と取る人がいるかもしれませんが、
私には、世界が終わりを迎え死が面前に迫っていても生命は最後まで生きる営みを止められないものだということを表象しているようにしか見えませんでした。
死が目前の状況にあっても、最期の瞬間まで心臓は鼓動を続けるように。

 。。。ところで、ニーチェは鞭打たれる馬に何を見たのでしょうか。
鞭打たれながら生きている馬に、人間の本質を見たのでしょうか。
人生は厳しく時に冷酷で、生は本質的に苦役なんでしょうか。
生命はただこの世界でもがきあがくために死を宿命づけられて生まれてくるのでしょうか。
だとしたら、命にはどんな意味があるのでしょうか。。。

 この映画の世界観は、よく観るとかなり恣意的に形成されているように思えます。
 ジャガイモ1個の食事は、生物にとってエネルギーを補給することが食べることの本質と捉えています。
そこには美味しいものを食べる愉楽はありません。
 主人公二人が父と娘で、夫婦でないのも意図があるようです。
父娘は親子というより主人と使用人のようにも見えます。つまり、愛情が感じられないのです。
 この映画は人生で喜びや意義となるもの、
食欲、愛情、人との結びつきといったものを慎重に拭い取っているのです。

 人はパン無しでは生きられないけれど、パンのみで生きているものでもありません。
むしろパン以外に生き甲斐を見出すのが人間の本質ではないでしょうか。
                               (☆☆☆)
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# by am-bivalence | 2013-03-08 00:54 | 人間ドラマ | Comments(0)
 キャラクターの成長とともに主題が変化していく映画には、さらに裏テーマが?  公式サイト

 この夏は映画の大作、話題作が豊富な年でした。
続編、リメイク的なものが多いのも特徴。

 傑作と言われる前作のプレッシャーをものともせず、
3部作を手堅く締めくくった「ダークナイト・ライジング」、

 「エイリアン」の皮を被った"ムー"だった「プロメテウス」、

 オリジナルだけでなく「ブレードランナー」、「フィフス・エレメント」といった
SF映画の雰囲気を盛り込んだ正統派SFアクション「トータル・リコール」、

 公開館が少ないので名作のリメイクで話題を狙っただけのキワモノかと思っていたら、
意外によく出来ていた「遊星からの物体X ファースト・コンタクト」、

"これが映画だ"と大見得を切ってるけど。。。の「アベンジャーズ」など、など。

 さてこの夏の話題作で気になったのが、
「時をかける少女」で一躍有名になった細田守監督最新作、
「おおかみこどもの雨と雪」。
ちょっと変わった映画でした。
なにしろ映画の進行とともに主題(テーマ)が変わっていくんです。

 冒頭は花と彼(おおかみおとこ)のラブストーリーと家庭の形成物語。
中盤はシングル・マザーとなってしまった花の子育て奮闘記。
終盤は二人の子供、雨と雪のアイデンティティーの確立と自立の物語。
 3つの主題が一本の映画となっているのは、お得といえばお得(笑)ですが、
観終わると、母親の物語だったのか、子供たちの物語だったのか、
印象が散漫になってしまうのが難点です。

 もうひとつ引っかかったのが、なぜ「おおかみこども」なのかということ。
細田守監督、子育てする女性のかっこ良さを描きたかったと語っていますが、
それだけなら「おおかみこども」である必然性は無いはずです。
 では、田舎暮らしを描くうちに「もののけ姫」のように自然対人間のテーマも盛り込むため、
自然の象徴として「おおかみこども」にしたのでしょうか。
でもここで描かれる「おおかみこども」は自然側の象徴としては少し違和感があります。
「おおかみこども」は人間に比べれば野性的かもしれませんが、
彼ら自身、野生動物からも畏れられる(疎まれる)存在ですし、
野生生活に入るにはそれなりの"訓練"が必要でした。
 また、「おおかみこども」はティム・バートンが好んで描くような
異形(変人、おたく)の象徴という意見もあります。
でもそれは個性であって"血統"とはちょっと違う気がします。

 では「おおかみこども」とは何なのか。
誤解を恐れずに深読みすれば、「おおかみこども」、「おおかみおとこ」は
混血や在住外国人の暗喩として、裏テーマ的に設定されたのではないのでしょうか。
ちょうど「千と千尋の神隠し」が"風俗で子供を働かせる親"という裏設定があったように。
 そう考えると終盤子供たちが"人間社会"の中で自分たちの属性に悩み、
それぞれ別の道を歩み始めるのが、すんなり受け入れられるのです。
社会の偏見に悩まされながら子育てする混血児のシングルマザーと、
成長するに従い、自身のアイデンティティーに揺らぐ在住外国人の子供達、
そんな比喩に思えてきます。
 おおかみこども達の父である彼(おおかみおとこ)の名前が出てこないのも意味深です。
名前は国籍を端的に表しますから。。。と、これも深読みしすぎでしょうか。
                            (☆☆☆)
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# by am-bivalence | 2012-08-31 00:58 | アニメ | Comments(0)