劇場で観た映画の覚え書き


by am-bivalence
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「ゴジラ」に垣間見る戦争の影 公式サイト

 ハリウッド版「ゴジラ」公開に先立ち、オリジナルの「ゴジラ」デジタルリマスター版が公開されました。
リメイク版「ゴジラ」にこんな副産物が付いてくるなんて、
私としては新作公開よりもこちらの方がかなり嬉しい(笑)。
10代の頃にTVでしか観たことがなかった伝説的作品が映画館の大画面で観られるのですから。
しかもゴジラと因縁深い有楽町でもやっている。
なので観に行ってきました、近場でなくシャンテまで。

 映画が始まるとオープニングにあのテーマ曲が。
「ゴジラ」が甦っている!とワクワク感が高まります。
デジタルリマスターされているだけあって傷が無いのはもちろん、音声も明瞭な気がします。
 でもねえ。。。1954年公開の古典的作品、やはり時代を感じてしまいます。
子供の頃喜んで観ていた「大怪獣ガメラ」も今見直すとチープな作りにツッコミ所満載だったりするように、「ゴジラ」も今見るとオイオイと突っ込みたくなります。当時としては大人の観客も意識した怪獣映画としては高い年齢層を狙ったものだったのですが。
伝説は伝説のまま、そっとしておいたほうが良かったかも(笑)。

 面白いのは志村喬演じる山根博士。いち早くゴジラを調査しその脅威を警告して、
一見良識的科学者のように見える山根博士ですが、
ゴジラの殺害には反対し、捕獲して研究することに固執します。
あの狂暴で放射能まみれのゴジラをですよ。
 この辺り、ゴジラを倒すオキシジェンデストロイヤーを造った芹沢博士よりも
山根博士のほうにマッド・サイエンティストぶりを感じてしまいます。
逆に、意図せずして自分の生み出したオキシジェンデストロイヤーを畏怖し苦悩する芹沢に、とてもヒューマニズムを感じます。

 今「ゴジラ」を観直してみて気付かされるのは、映画の背景に見える戦争の影です。
「ゴジラ」公開は1954年、第二次大戦終結から9年しか経っていません。
 ゴジラが首都圏を襲う経路は、実はB-29の空襲経路だそうです。
ゴジラの背後で東京の街が火の海と化し、病院が野戦病院のように怪我人で溢れる様は、当時の人にはとてもリアリティを持って恐怖と不安を呼び覚ましたのではないでしょうか。ちょうど3.11以降、我々が地震や津波に対して持つように。
いや実際に戦争を経験し命を危険に曝した世代には、それ以上だったでしょう。
 芹沢博士も戦争で片目を失い顔に傷を残した設定になっています。
戦争の傷を忘れるため研究に没頭した成果がオキシジェンデストロイヤーという大量破壊兵器となってしまう悪夢。水爆という大量破壊兵器の申し子であるゴジラに対抗するには大量破壊兵器しかないという矛盾。
 芹沢が苦しみ最後にあのような行動を取るのを、子供の頃私は理解できなかったのですが、今は理解できる気がするのでした。     (☆☆)
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by am-bivalence | 2014-06-22 01:12 | SF | Comments(0)

SCREEN129 ニーチェの馬

 生きることは"苦役"なのだろうか 公式サイト

 今年最初に観た映画はT田馬場W稲田松竹の2本立てでした。
そのうちの1本が、この「ニーチェの馬」。 観終わった後の正直な感想は、
 "新年早々、こんな重たい映画を観てしまうなんて。。。"
でした。
ユーモアなど全くと言っていいほど無く、世界がじわじわと破滅に向かって行く閉塞感に押し潰されそうになる映画だったのです。
この閉塞感は私を鬱な気分にさせてくれました(苦笑)。
これほど鬱屈した後味を残した映画は、ラース・ホン・トリアー「メランコリア」で絶対的絶望とそれに対峙した時の人間模様を観せられて以来でした。

 この映画が紹介される時はタイトルにもなっているニーチェ晩年のエピソード、
働くのを拒んで鞭打たれている馬にニーチェが泣きながら抱き付き、発狂したという逸話が紹介され、それにインスパイアされて映画が出来た云々が言われます。
映画冒頭にもその逸話がティロップされますが、実際のところ、映画を観ている間はほとんど逸話を気にする必要はないと思います(笑)。
劇中、馬は出てきますが、この馬がニーチェの馬だとは一言も言ってませんし。。。
 この映画の構成はシンプルで、農夫の父と娘が繰り返す生活を6日間ずっと追い続けるだけです。
映画全体の雰囲気は予告編から受ける印象そのまま。
白黒の映像に重苦しい管弦楽のBGMが被さり、戸外は常に強風が吹き荒れています。

 この映画を観ていて感じさせられるのは”生きていることは苦役である”ということです。
戸外に吹き荒れる強風は水を汲みに行くことさえ困難にし、親子の生活を妨げます。
親子は朝起きては着替え、水を汲み、薪割りなどの労働をする生活を繰り返します。
父は右腕が麻痺しており、不自由な体を娘に補助してもらい着替えなければなりません。
毎日の食事は茹でたジャガイモ1個だけという極端に簡素なもの。
そこに喜びは無く、ぎりぎりの生活をただ義務的に日々続けているような日常です。
 それは極限まで切り詰められた人間の生き様、さらには、生命の本質をも象徴しているように思えます。
ただ生まれ、生き、死んでいく生命のありようの象徴です。

 ちなみにこの映画は観る者にも"苦役"を強いるようです(笑)。
普通の映画なら90分で終わってしまうような内容を2時間34分という長尺で、
繰り返す日常を延々と見せられます。
しかも全編で30カットしかないという長回しシーンを注視し続けなければならないのです。

 ただ、父と娘の6日間は全く同じ日々では無く、少しずつ"何か"を失っていきます。
やってきた隣人には世界がひどい有様になっている噂を聞き、
馬は何故か働かなくなり、何かに脅えたようで餌も食べなくなります。
やがて井戸も涸れ、ついには信じがたいものまで失って窮地に陥ってしまうのです。
 何かを失っていく世界、これは"老い"や、生物が死へ向かって行く命の終焉を象徴しているようです。
老いていくというのは今まで出来ていたことが出来なくなっていくことであり、
個体にとって死とは、「ドニー・ダーコ」で看破されたように、世界の終りと同義なのですから。
この映画が6日間の出来事であるのも、神が6日間で世界を創ったことに対比させているそうです。

 そしてラストシーンでの父親の行動。
その姿をどんな状況でも諦めない希望と取る人がいるかもしれませんが、
私には、世界が終わりを迎え死が面前に迫っていても生命は最後まで生きる営みを止められないものだということを表象しているようにしか見えませんでした。
死が目前の状況にあっても、最期の瞬間まで心臓は鼓動を続けるように。

 。。。ところで、ニーチェは鞭打たれる馬に何を見たのでしょうか。
鞭打たれながら生きている馬に、人間の本質を見たのでしょうか。
人生は厳しく時に冷酷で、生は本質的に苦役なんでしょうか。
生命はただこの世界でもがきあがくために死を宿命づけられて生まれてくるのでしょうか。
だとしたら、命にはどんな意味があるのでしょうか。。。

 この映画の世界観は、よく観るとかなり恣意的に形成されているように思えます。
 ジャガイモ1個の食事は、生物にとってエネルギーを補給することが食べることの本質と捉えています。
そこには美味しいものを食べる愉楽はありません。
 主人公二人が父と娘で、夫婦でないのも意図があるようです。
父娘は親子というより主人と使用人のようにも見えます。つまり、愛情が感じられないのです。
 この映画は人生で喜びや意義となるもの、
食欲、愛情、人との結びつきといったものを慎重に拭い取っているのです。

 人はパン無しでは生きられないけれど、パンのみで生きているものでもありません。
むしろパン以外に生き甲斐を見出すのが人間の本質ではないでしょうか。
                               (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2013-03-08 00:54 | 人間ドラマ | Comments(0)
 誰にも言えない、言いたくない、想いを抱えて 公式サイト

 この映画、観たのは2月なのですが、ずっと心の隅に引っかかっていました。
物語の核心ともいうべきところをどう解釈していいのか、分からなかったからです。
(以降はネタバレになるかも知れません。気にされる方は映画を御覧になってから読んでみて下さい。)

  9.11で大好きな父親を失った少年オスカーが、父の遺品の中に鍵を見つけ、その意味を探そうとするこの物語。
オスカーは性格的に人と接するのが苦手で、自分を鼓舞するためにタンバリンを持ち歩き鳴らしながら、人を訪ねて歩きます。
 当初観客には、オスカーが父の面影にこだわり続けるのは、父への思慕や、父を失ったことを受け入れたくない感情からのように見えていました。
ところが終盤になって実はそれだけではなく、オスカーはある罪悪感からも父の死に捉われていたことが明らかになるのです。
 なぜ映画(原作)は、オスカーにそんな"罪"を負わせる宿命を課したのでしょう?
喪失感を描くだけでも物語として十分成立するはずなのに?

 映画には途中からオスカーと行動を共にする、言葉を失くした老人が登場します。
彼は昔のある出来事によって声を出せなくなったらしいのですが、彼の過去に何があったのか、老人は語りたがりません。
 また、オスカーが鍵の出所を探して訪ね歩く人々は、どれも一癖ある人たちばかりです。
  離婚寸前の夫婦、
  話をしていると何度もハグしてくる人、
  話を聞こうともせずに追い返す人。。。
彼らがそうするには何か”訳”がありそうなのですが、映画ではそれらは一切語られません。
 なぜ意味ありげな人達を登場させておきながら、一切説明をしないのでしょう?
9.11という一般には理解しがたいテロによって奪われた人々、
不条理なこともあるがままに受入れよという示唆なのでしょうか?

 先月は3.11から1年、
TVではその日が近づくと3.11の特集番組がいろいろ放送されました。
私は幾つかを部分的に観て、幾つかを記録として録画しておいたまま、
ずっと放置していました。
私は首都圏にいて大きな被害を受けたわけでもないのですが、
あの頃を振り返るのはまだちょっと気が重かったからです。
 最近になってそれらを観始めた時、ふと思いました。
未曾有の災害を前にして、我を失った人たちは少なくなかったはずです。
気が付くと目の前に迫る大津波に、我先に逃げ出していた人、
傍にいた人に手を差し出せば助けられたかもしれないのに、
自身の危険を感じて手を伸ばせなかった人。
あの時何かもっとやれることがあったはずと、悔んでいる人もいるはずです。
 そういった人達は今、心の奥に後ろめたい罪悪感を抱えているかもしれません。
でもそんな想いは誰にも話せないし、話したくないでしょう。

 「ものすごく…」のオスカーが罪悪感という秘密を抱えていたのは、
そんな人達を代弁するためだったのではないでしょうか。
口がきけなくなった老人も過去にそんな経験をしたために、
それを打ち明けたがらないのでは?
オスカーが出会うちょっと変わった人達も、
なにかしら似たような傷みを抱えて生きているのでは?
 だとしたら、生き辛いのは自分だけではなく皆同じ、誰もが何かしら持っているもの。
あの時は勇気が出なかったけれど、今度はタンバリンを鳴らして向かっていこう、
次はもう少し前に踏みだせる。。。
 そんなことをあの映画は伝えたかったのではないでしょうか。

 そう思い至った時、あの物語が2ヶ月目でやっと腑に落ちた気がしたのでした。
                                      (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2012-04-13 22:20 | 人間ドラマ | Comments(0)

SCREEN122  誰も知らない

 大人としての覚悟を問われる 公式サイト

 10月に早稲田松竹で是枝監督特集があり、
初めて「誰も知らない」を観ました。
同時上映の最新作「奇跡」は今一つだったのですが
(そもそも"まえだまえだ"兄弟があまり好きではない(苦笑))、
「誰も知らない」はずっしりと観ごたえのある映画でした。

 実際にあった子供置き去り事件を題材に作られたこの映画、
内容は重いし、子供たちが追い込まれていく様子に、
観ていて、いたたまれなくなる映画でした。
でも目を逸らすことができません。
彼らがどうなってしまうのか、最後まではらはらさせられたからです。
出ている4人の子供達は自然でいかにも子供らしい。
柳楽君、この頃から真っ直ぐな目力あります。

 子供達を放ったらかしにして悲惨な状況に遭わせてしまう
母親のいい加減さには怒りを覚えますが、
YOU演じる母親はどこか憎めないところがあって、
こんな母親、いかにもいそうに思えてくるのが怖いところです。
キャスティングが絶妙です。
 一見、子供達に愛情を注いでいるように見える母親が、
簡単に子供を見捨ててしまうところは理解し難いかもしれませんが、
子供をペットと同じ感覚で扱っていると思えば、納得いくのではないでしょうか。
子供がちょっと不満を漏らし反抗的になると、プイと見捨ててしまうところは、
犬などを面倒になると簡単にを捨ててしまう人達に通じるように思います。
冒頭、子供をカバンの中に隠して引越して来る様子など、
ペット禁止のマンションに動物を持ち込むような感覚なんでしょうか。

 唯一の救いは兄弟のリーダー的存在である長男の明です。
いい加減な母親とは対照的に、しっかり者で道徳意識を持ち合わせています。
彼は生活に困窮しても、万引きなどの犯罪の誘惑に惑わされず、
援交で生活費を作ってくれた女子高生の友人も拒否してしまうのです。

 それにしても観ているうちに、この母親を単純に非難することが出来るのか、
私には自信がなくなってきました。
 彼女は2人目の子供を出産したとき、
男に捨てられ精神的にかなり不安定だったのではないでしょうか。
出生届を出す気になれないうちに機会を逸してしまい、
そのままずるずると生活を続け、心の痛手を癒すために男を渡り歩いて、
3人目、4人目が出来てしまい。。。
(妄想です(笑))
 面倒なことを後回しにして、そのまま放置してしまう、
まずいことは分かっていてもその状況から抜け出せない。。。
そんなことって誰でも何かしら経験ないでしょうか?
でも実はそれは、面倒だからではなくて、
行動する勇気がないのを面倒とごまかしていないでしょうか?

 YOU演じる母親は明にこう言います、
「私は幸せになっちゃいけないの?」
彼女は全く自覚していなかったのです。
自分を犠牲にしても負わなければならない責任があることを。
自分の事しか頭にない行動が、周囲に多大な負担をかけていることを。

 なぜ子供たちがこんな目に逢わなければならないのか考えるうち、
自分は大人として責任ある行動をしているのか、
自身にも問いかけさせてしまう映画なのでした。
                     (☆☆☆☆)
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by am-bivalence | 2011-12-23 21:27 | 人間ドラマ | Comments(2)

SCREEN119 冬の小鳥

 受け入れがたい現実を容認していくとき、人に起こる変化 公式サイト

 NHK教育に「名作ホスピタル」っていう番組があります。
昔のアニメを題材に心や体の健康を考える番組なんですが、
キャストの中川翔子ちゃんのオタクっぽいところが好きで、毎回何となく観てます(笑)。
 前回は「大切なものを失ったとき」がテーマでした。
番組によると、人はかけがえのないものを失ったとき次の段階を経て感情が変化し、
現実を受け入れていくそうです。
 1)パニック(号泣、混乱等)
 2)否認、怒り(そんなのウソだ!、何で私がこんな目に遭うのか、等)
 3)取引(良い子にしているから返して下さい、等)
 4)抑うつ(何もする気が無くなり、虚無的になる)
 5)受容(失ったことを現実としてあるがままに受け入れる)
人はこの段階をきちんと踏まえた方が早く感情が安定するとも言います。

 知っている人ならすぐ気付いたと思いますが、
これはキューブラー・ロスの言う、人が死を受け入れる際の心理とほぼ同じです。
ロスは著書「死ぬ瞬間」で、不治の病に侵された人が死を受け入れていく過程の観察から、人の心理は段階を追って変化し最後は静かに死を受け入れていくとしました。
番組で示されたモデルはこれを応用・発展させたもののようです。
大切なものを失った場合も、死を目前にした場合も、
受け入れがたい現実を容認する心理過程は同じ、という事なのでしょう。
 韓国映画「冬の小鳥」を観ていたら、この事を思い出しました。

 映画「冬の小鳥」は1975年の韓国を舞台に、
大好きな父親に孤児院に置き去りにされた少女ジニの物語。
 この映画、プロデューサー、キャスト、撮影が韓国のせいか、韓仏合作の韓国映画となっていますが、監督のウニー・ルコントは幼少の頃フランスに里子に出された韓国系フランス人。自身の体験を元に書いた彼女の脚本が注目され、制作されたそうですが彼女はずっとフランス映画界に関わっていて、彼女自身は韓国語も忘れてしまっているそうです。
実はこの映画、韓国映画の皮をかぶったフランス映画とも言えるのではないでしょうか。

 それはともかく、この映画の一番の魅力は主人公であるジニです。
演じるキム・セロンの可愛らしさもあるのですが、
父に突然孤児院に預けられたジニがとる反抗が、とても子供らしく自然です。
例えば孤児院での初日、ジニは置き去りにされたことが信じられず孤児院に入るのを拒否し、夜真っ暗になるまで庭の片隅でずっとうずくまっています。
この意固地さと不安感、私は子供の頃の似たような体験を思い出しました。
 大人に反抗する子供と言えば、「大人は判ってくれない」のコレット君ですが、
彼は平気で嘘をついたりするちょっと悪ガキで、少し理解しがたいところがあるのに対し、
ジニの感じる戸惑い、不安、怒り、そして世界への不信感はよく理解できますし、
そこから生じる彼女の反抗も共感できます。
孤児院のジニは「害虫」のサチ子のように寡黙で、笑いません。

 孤児院にいる事実を拒否し、周囲から孤立していたジニも、
次第に父親に捨てられた現実、孤児としての生活を受け入れざるおえなくなります。
この過程が冒頭の「大切なものを失ったとき」と似た部分があって、あの番組を連想させたのでした。
孤児院の友達との間に起きたつらい出来事の後、父との繋がりが無くなった事実を知った時、怒っていたジニは抑うつ状態になっていきます。
この後ジニは、ある通過儀礼的行為を行ったことで、態度が大きく変化するのです。
ここはある意味「死ぬ瞬間」のようで象徴的です。
人が受け入れがたい事実を認めるには、このような過程が必要ということでしょうか。

 ジニは最後まで父を慕う感情を失くしませんでした。
親への盲目的信頼がまた子供らしくて、胸を締め付けるのでした。
                            (☆☆☆☆)
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by am-bivalence | 2011-05-22 23:03 | 人間ドラマ | Comments(2)

SCREEN117 害虫

宮崎あおい、蒼井優のファンは必見だが、観客に観察力を要求する映画公式サイト

 本作は2002年に公開されたもの。
今や日本を代表する若手人気女優となっている
宮崎あおいと蒼井優が15歳の時に共演した貴重な映画です。
二人とも若い、というより幼い! 彼女達のファンであれば必見!
。。。と言えるでしょうが。。。ただこの映画、観客を選びます。
つまらないと言う人もいれば、傑作と言う人もいて、人によって評価が大きく分かれるようです。

 ともかくこの映画、説明をしない映画です。
セリフが少ないというのもありますが、
(主人公サチ子(宮崎あおい)は寡黙な少女で、なかなか感情を表に出しません。
いつもポケットに手を入れて歩く様子は、何かを秘めているようで象徴的です。)
意図的に分かりにくく場面を切り取って見せているのです。
 例えば冒頭からいきなり、女性が手首を切って自殺しようとするシーンで始まりますが、
彼女がサチ子の母親であるのが分かるのは後になってから。
しかも彼女が自殺しようとした理由は、最後まで分かりません。
分かっているのは彼女が自殺未遂を起こしたという事実だけ。

 サチ子が母親と二人暮らしの母子家庭であるのも、何か訳有りのようですが、
映画の本筋と関係ないためか、これも全く説明なし。
 途中要所要所で、字幕の文章が出てきますが、
それがサチ子とサチ子の担任だった元小学校教師とがやり取りする
手紙の文章であるのが分かるのも、しばらくたってからです。

 極めつけは、予告編にも出てくる住宅が燃えているシーン。
この映画の中で重要なエピソードなのですが、
この家が誰の家なのか判別できるのは、火災が起こるずっと前の1カットだけなのです。
(私も始め、燃えているのが×子の家とは気付かず、それを知った時は驚きました。
なぜ彼女の家が標的にされたのか、私は未だにはっきり理解できていません。
どなたか分かる人は教えて下さい。)
 ともかく、今どきの全てが腑に落ちるように構成された観客に親切な映画と違い、
観る者に注意力と考えることを要求する映画です。

 さらにこの映画、観ると気が滅入る映画に属するというのが、
人によって好き嫌いが分かれる点でもあります。
「モンスター」や「火垂るの墓」などと同じで、なすすべなく転落していく人を描いており、
最後はぷつんと断ち切られたような終わり方。
何ともやるせなく、後を引くエンディングです。

 監督は「黄泉がえり」「どろろ」の塩田明彦監督。
監督は「サチ子こそが害虫であり、ゴジラである」と言っているそうです。
シニカルで悪意を含む「害虫」という比喩をタイトルにしたのは
脚本を書いた女性、清野弥生だといいます。
周囲の男をみな惹きつけ、不幸にしていくサチ子を
女性として許せなかったんでしょうか(^_^;)。
サチ子はただ存在していただけで、意図して人をおとしめようとした訳ではないのに。
本人に悪意は無くとも社会的に有害であるから「害虫」なんでしょうけれど。

 監督はこの映画の続編の構想も語っているそうですが、
「どろろ」の続編もままならなかったのに、どうなんでしょう?
実現したらすごいことです、私は「どろろ」の続編よりも観てみたいと思います。
                    (☆☆)
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by am-bivalence | 2010-12-08 23:12 | 人間ドラマ | Comments(0)

SCREEN115 17歳のカルテ

多感でバランスを失いやすい思春期のもう一つの姿に共感 参照サイト

 「午前10時の映画祭」を観るようになってから、往年の名画を劇場で観ることが面白くなり、最近は都内の名画座にも通うようになってしまいました。
今のお気に入りは、高田馬場の早稲田松竹
週替わりで2~3本立てをやっていて、料金は一般1300円と、とってもリーズナブル(^_^)。
2003年頃改装し生まれ変わったらしく、シートの足元が広く快適なのも嬉しい点です。
 その早稲田松竹で今週(10/9~15)は「17歳のカルテ」と「プレシャス」を上映しています。
「17歳のカルテ」は封切当時、恵比寿ガーデンシネマまで観に行って、お気に入りの一本になった映画でした。
 実は私のハンドル・ネーム「am-bivalence」はこの映画のエピソードから採っています。(ちなみに接頭辞としは劇中でも触れているようにambi-です)
当時なぜわざわざこの映画を観に行ったかというと、「エイリアン4」で観たボーイッシュでどこか儚げなウィノナ・ライダーに惹かれたから(笑)。
そんなミーハーな動機とは裏腹に、映画の内容は重くて心に残るものでした。

 簡単にあらすじを書くと、
1960年代ベトナム戦争や民権運動で揺れていたアメリカで、高校を卒業したスザンナは"不安で、頭痛を消したくて"ウォッカとアスピリンを一瓶飲み病院に運び込まれます。
この事件で彼女は境界性人格障害と判断され、そのまま精神病院に入院させられます。そこは心に問題があるとされた同年代の少女たちが収容されている病棟でした。一時的入院と思っていたスザンナはここで反抗的で反社会性病質とされたリサ、虚言症のジョージーナ、自分の顔に火をつけたポリーなどと出会い、2年間過ごすことになります。。。

 境界性人格障害とは、もともと神経症と精神病の境界にあるということで名づけられたのですが、いくつかの特徴を持った患者を指すようになりました。
境界性人格障害の特徴として、
 1)不安定な人間関係(親しくしていたと思うと急にののしる等)
 2)自殺企図、自傷行為、衝動行為(浪費、喧嘩、無謀運転、性的逸脱)
 3)慢性的な抑うつ気分、空虚感
 4)制御不能な激しい怒り
があるそうで、これらは頼っていたもの、愛したものに対する強い見捨てられ不安からくるといいます。
 なにやら一部自分のことを言われているような。。。
私は痛いのは嫌いなので、自傷行為にはちょっと理解が及びませんが、
その他は誰でも多少とも持ち得る感情のような気がします。
(ちなみにDVDの特典映像には未公開シーンとしてリサが手首に自傷行為をしていたエピソードがあります。映画オリジナルのエピソードで映画の中でも後半の展開に絡む割と重要なシーンなのですが、時間的な都合でカットされてしまったようです。)

 依存症、ネグレクト、自殺などシリアスな内容を扱った映画ですが、
全体のトーンは暗くなく、患者同士の連帯や友情を交え、時には笑わせてくれます。
これは映画の原作であるスザンナ・ケイセンの自伝小説「思春期病棟の少女たち」の雰囲気に影響されているようで、原作も暗くなりそうな話を軽妙なタッチでさらりと描写しています。
エンドタイトルでも流れる挿入歌の「恋のダウンタウン」は、今でも聞くと元気を貰える気がします。

 原題は原作も映画も"Girl, Interrupted"。
(しかし主人公は18歳のはずなのに何故「17歳のカルテ」なんだろう?)
この原題はフェルメールの絵画「演奏を中断された少女」から採られていて、人生の大切で楽しい時期を中断、隔離されてしまった著者のとまどい、無念さを簡潔に表しています。
著者がこの体験を冷静に振り返られるようになるには、
それなりに年月が必要だったそうで、本にしたのは40代になってからでした。

主演のウィノナ・ライダーはこの原作が好きでプロデュースもしています。
彼女自身、若い頃精神的に不安定になって一時入院した体験を告白していて、
彼女が時々見せる不安で脆そうな表情はそんな繊細なところからきているのでしょうか。
ウィノナにとってスザンナはぴったりな役柄ですが、
それ以上にはまり役だったのが、リサを演じたアンジェリーナ・ジョリーでした。
当時彼女はほとんど新人でしたが、今にして思うと反抗的で野性児のようなリサは、彼女にとって十八番のような役でした。
この演技でアンジェリーナ・ジョリーはアカデミー賞助演女優賞を獲得しました。
                      (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2010-10-13 23:29 | 人間ドラマ | Comments(0)
 前半、親子の愛情あふれる触れ合いが微笑ましく、痛ましい 公式サイト

 2005年に自殺したフランスの映画プロデューサー、アンベール・バルザンをモデルに、
父親と娘たちとの交流、残された家族の立ち直る姿を描いた作品。
 映画の前半はプロデューサーの仕事に忙殺されながらも、
家族との時間を大切にしている父親グレゴワールを中心に展開します。
下の娘2人が「劇」として見せるニュースキャスターごっこを家族みんなで楽しんだり、
旅行先で訪れた教会の天井画を娘達にやさしく説明したり、
何気ない親子の触れ合いが愛情込めて描かれていて微笑ましく、
後半の展開を知っているだけにちょっと痛ましい気持ちになります。
 こういった描写があるから後半が生きてくるんですが。

 苦しい財政事情をなんとかやりくりして自転車操業していた映画プロダクションが、
金銭感覚に疎い映画監督が小切手を現金化してしまったことをきっかけに、
資金繰りが急速に悪化します。
スタッフとも険悪な雰囲気になったりし孤立していったグレゴワールは、
ついに自ら命を絶ちます。
 このあたり、ちょっと唐突で違和感を感じました。
自ら死を選ぶ人というのは、もっと前から「死」という選択肢のカードを胸の奥に隠し持っていて、いつ切ろうか逡巡しているような気がするからです。人には決して明かさずに。
もっとも、資金繰りが悪化するずっと前に冗談めかして
「資金難になったら自殺でもするか」というシーンはありましたけど。
 モデルになったアンベール・バルザン氏は普段は話し好きで社交的でしたが、
亡くなる5カ月ほど前から鬱を患っていたそうです。

 残された妻シルヴィアと3人の娘は嘆き悲しみますが、
プロダクションには何百万ユーロの負債と未完成の映画が残されていました。
悲しむ間もなくシルヴィアは借金を何とかして着手中の映画を完成させようと奔走します。
それがグレゴワールの遺志だと信じての行動です。
 気丈にもシルヴィアは残された遺族が一度は口にするであろう疑問を言いません。
それを率直に問うのが子供たちです。
「なぜ?」「どうして私達を残して?」

 お父さんは私達のこと思ってくれてなかったの?と言う幼い子に、
グレゴワールの友人はこう答えます。
「いつも君たちのことを考えていたよ。でも一瞬忘れてしまったんだ。」
ごまかさない率直な物言いは、彼女たちが事実をゆっくり受け入れていくしかないと思ってのことでしょうか。

 年長の長女は事情が分かるだけにもっと複雑で、
ふとしたことから父に隠し子がいた事を知りショックを受けます。
その事で父をなじる長女に対し、母は
「お父さんとの楽しかった日々を思い出して。父親の愛の深さを忘れないで。」
と毅然と言います。
 う~ん、確かにいい父親ではありましたが、
済んだ事とは言え浮気していた夫をそう擁護できるなんて、
父よりも母の愛の深さ、度量の大きさを感じてしまいます。
続けて母は
「死は人生の否定ではない。死は人生の数ある出来事のひとつ。」
とも言うのです。
 考えさせられる言葉ですが、この強さはどこから来るんでしょう。
気が強いと噂に聞くパリジェンヌの持つ強さなのか、
まだ20代の女性監督の理想像なのか。。。
                    (☆☆
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by am-bivalence | 2010-07-07 00:07 | 人間ドラマ | Comments(0)

screen103 007/慰めの報酬

 本家ジェームズ・ボンドはジェイソン・ボーンになっってしまうのか  公式サイト

「クラッシュ」のポール・ハギスによる脚本で007シリーズに人間ドラマを持ち込み、
魅せてくれた新生ジェームズ・ボンド、
再びハギスの脚本で前作の続編として作られるとあれば、期待も高まろうというもの。
 でも、観てみると何か違う。。。

 アクションはそれなりに楽しめます。
「ボーン・アルティメイタム」「イーグル・アイ」のような速いカット割で、
付いて行くのが大変です。 頭がくらくらします(笑)。
でも、何か違う。。。

 いままでのボンドは機知を使って一発逆転、
危機を乗り越えていく痛快さがありました。
でも今回のボンド、反射神経とスピードで勝負、のようなところがあります。
予告編でも使われている車内で向けられた銃を払うシーンなど、その典型です。
それが"若き"ジェームズ・ボンドってことなのでしょうか。
独断専行、猪突猛進でMを困らせているのも、若さゆえ?。

 屋根の上をつたって逃亡するシーンなど、
なんだか「ボーン・アルティメイタム」を観ているみたいだなあ、と思ったら、
アクションシーンの撮影監督に「ボーン・アルティメイタム」の
撮影監督を起用しているそうです。
どおりで「ボーン・アルティメイタム」と同じ、
カメラが対象と一緒になって飛んでいくカットがあるはずです。
 ジェームズ・ボンドがシリアスでユーモアを無くしてしまうと、
ジェイソン・ボーンになってしまうんでしょうか。
 従来のパターンを破って新機軸を作るのは
なかなか大変なんですね。
                 (☆☆
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by am-bivalence | 2009-01-31 22:08 | アクション | Comments(0)

screen96 ブラインドネス

 人間はそこまで醜くないと信じたいが。。。  公式サイト

 日本人俳優二人の出演でも注目された「ブラインドネス」、
宣伝文句で"心理パニックサスペンス"と謳ってしまったので、
世界的に広がった新種の伝染病が引き起こすパニック映画と誤解してしまう人が多いようです。
 この映画では、人々が失明してしまう伝染病の正体は最後まで分かりませんし、
主人公がなぜ、ただ一人失明せずにいられるのかも全く説明されません。
 結局これは、極限状態で現れる人間の本性を見せる寓話なのですが、
ここで描かれる人間性がとても浅ましく、観ていて息詰まってしまうのです。

 隔離された失明者は人数の少ないうちはまだ秩序を保っていられましたが、
人が増えて収容所内の衛生状態が最悪になり、スラムのようになってしまったとき、
銃を手にして王を名乗る男が全てを支配しようとします。
 男が最初、盲人には全く価値の無い貴金属を徴収するのには笑ってしまいますが、
次に女性を要求しだした時の男達の反応は、なんともやり切れません。
貧困に窮してしまうと、そういう人間性も現れるのかもしれませんが。。。

 「シティ・オブ・ゴッド」で人殺しをなんとも思わないスラム・ギャングを描き、
「ナイロビの蜂」でアフリカの貧困を目の当たりにしたメイレレス監督には、
そのような人間性が身に染みてリアルと感じるのでしょう。
 でも人間は、もう少し賢明だという気がするのです。
無秩序状態からお互い納得できる秩序を作り出し、
尊厳のために命を賭けても抵抗するといった、理性的で高潔な部分です。
 ただアメリカのような先進国でさえ、
テロとの戦いと称して、石油利権を求めてイラクを侵攻したように、
私利のために力を行使していることを考えると、
人間の理性を信じようとするのも、空しくなることがあるのですが。。。

 ラストは主人公一人が不安を抱えながらも、希望が見える終わり方ですが、
重苦しい思いばかり残ってしまった映画でした。
                     (☆☆)
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by am-bivalence | 2008-12-05 23:59 | 人間ドラマ | Comments(0)