劇場で観た映画の覚え書き


by am-bivalence
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 年末、HDDビデオの空きを増やすため録画したまま放っていた「ゴーイング マイ ホーム」を観てから消そうとしたら、ハマってしまいました。

 「ゴーイング マイ ホーム」は2012年10月から放送されたTVドラマ。
詳細はウキペディア番組HPに譲るとして、簡単にあらすじを説明しますと、

 坪井 良多(阿部寛)はCMディレクターとして日々顧客の御機嫌を取りながら忙しく過ごすサラリーマン。 妻沙江(山口智子)は有名な人気フードスタイリストで、小学生の一人娘萌江(蒔田彩珠)がいる。
 ある日萌江がうちには小人のフロドがいると作文に書き、沙江が学校に呼び出しを受ける。 一方、良多は東京で暮らしているはずの父栄輔(夏八木勲)が長野で意識不明となったと知らせを受け、長野の病院に駆けつける。病院で良多は父を見舞う下島 菜穂(宮﨑あおい)に出会い、父は故郷の長野で"クーナ"という伝説の小人を探していたことを知る。 森に住むクーナは死者と生者を繋ぐ能力があるという。 最初は笑っていた良多も森でクーナの帽子を見つけ、萌江とともに菜穂のクーナ探しに惹かれていく。。。

 このドラマは「誰も知らない」「歩いても歩いても」の是枝裕和監督が初めてTVドラマを手掛けたこと、
長い間引退同然だった山口智子さんが連ドラに復帰したことで話題になりましたが、
視聴率的には振るいませんでした。
 私も是枝監督ということで放送時1,2話観たのですが、TVドラマとしてはテンポがゆっくりで、何が本筋かよく分からない展開に観なくなり放ったらかしになっていました。 視聴率が悪かったのも、その辺りに原因があったようです。
いつまで経ってもドラマチックなことが起こらないのんびりした雰囲気、
重要な事をあえて強調せず視聴者に集中力を要する構成が、
2時間の映画ならともかく週1回放送される連続ドラマでは視聴者の関心を繋ぎとめられなかったのでしょう。
 でも全編を通して観ると、その点こそがこのドラマの面白いところでした。

 このドラマでキーとなるテーマは登場人物たちが何度も口にする
「この世界は目に見える物だけできているわけではない」
ということ。
 その言葉のようにドラマでは疑問が出てきても最初から真実は提示されず、観ているうちに次第に事実関係が分かってきます。
 なぜ萌江は学校でいろいろ問題を起こすのか、
 なぜ栄輔や萌江はクーナを探すのか、
 菜穂、治(西田敏行)親子はなぜ不仲なのか、
 幼なじみの栄輔、久実、治の間に昔何があったのか、、、
随所に伏線があって、何話か後にそれが分かったりします。
しかし全てが最後に明らかになるわけでもありません。
大切なものは表に現れず、真実は隠れてしまうもの、なんです。

 目に見えない大切なものというと"愛"とか"夢"とか"希望"を連想しますが、
劇中のある登場人物が目に見えないものとして"悪意"とか"失望"とかを上げて、はっとさせられます。
確かに世界は”敵意"とか"憎悪"とか目に見えない悲しいものにも動かされている。。。

 映画にはない連続ドラマの強みを活かし、登場人物それぞれのキャラクターが細かく描写され日常生活を丹念に追っているのも面白いところ。
 またドラマの根底に家族の繋がりがあるのが、以降の是枝監督作品「そして父になる」「海街diary」にも通じています。(「そして父になる」の撮影はこのドラマの前だったとか。 番組HPの第7話あらすじには家族について触れている部分があるのですが、本放送には出てきません。 おそらく何らかの理由でカットされたようです。 「そして父になる」にも出演している夏八木勲さんはゴーイング~撮影中にも体調がすぐれず、連ドラとしてはこれが遺作となりました。)
 一点残念なのは萌江が「ホビットの冒険」を読んで小人をフロドと呼ぶようになってますが、ホビットの冒険に出てくるのはビルボ。 是枝監督、「ホビットの冒険」読んでないな(笑)。

 ともあれ、ゴンチチの音楽をバックに、良多と家族が交わすゆるい会話にクスクス笑うのも良し、
ドラマの裏にある世界に想像を巡らすも良し、
沙江の作る美味しそうな料理を楽しむも良し、
「ゴーイング マイ ホーム」は幾重にも楽しめる良質なドラマ、もう少し評価されてもいい悲運のドラマなのでした。
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by am-bivalence | 2016-01-10 00:05 | 人間ドラマ | Comments(0)

SCREEN130 風立ちぬ

"一番傷つきながら生きている"ことの意味  公式サイト

 最初、アニメ「風立ちぬ」は印象悪かったです。
6月頃から映画館で「風立ちぬ」の4分間スポット予告を始めたんですが、
これが映画本編終了後に上映するという、タイミングの悪いもの。
観客が観たくて来た映画の後、余韻に浸る間もなく関係ない映画の予告など見せられたんじゃ興醒めです。
どんなに面白そうな映画でもこれでは逆効果、
絶対観に行ってやるもんか、と思ってしまいました。
(ジブリらしからぬまずい宣伝は、さすがに不評だったと見え、2週間ほどで普通の予告と同様、本編の前に上映するように変わりました。)
 でも宮崎アニメ、公開されるとやっぱり観に行ってしまうんですね。

 宮崎駿監督5年ぶりの新作は、実在の人物と現実世界を扱ったこれまでに無いパターン。
監督自身は子供向けアニメをやりたかったのですが、
鈴木プロデューサーが模型誌に連載したこのマンガの映画化を要望したとか。
 プロデューサーとしては低年齢層を意識した「ポニョ」がヒットはしたものの、
トトロほど人気を得られなかったので目先を変えたかったんでしょうか?

 それはともかく、出来上がったものを観ると、大地震で家の飛び跳ねる動き、汗の雫や吐血時の液体の表現など、ポニョで使った絵本やマンガのような、写実的ではない手法を踏襲してます。
宮崎監督、自分のやりたかったことをちゃっかり盛り込んでいます。
 鈴木プロデューサーは実在の人物、世界を扱うならば、得意の飛行シーンも使えないだろうと思っていたようですが、そこも宮崎監督、現実世界に夢の中、空想の中のシーンを差し込んで、思いっきり飛び回っています(笑)。 好きなプロペラ飛行機も思う存分引っ張り出して。
 プロペラやエンジン音など効果音を人の口でやるというのも、マンガ的表現の一環なんでしょう。この効果音は部分的に人の声と感じ取れるところがあって、空想の中の飛行機であるのが強調されたような不思議な感覚があったり、震災の時の地鳴りのような音に人のうなり声が混ざって不気味さが増していたり、面白い効果を上げていたと思います。
 震災時のモブシーンも見どころ。 これは大画面で観るべきでしょう。
夢の飛行シーンと比べると、震災シーンはさながら悪夢のようです。

 映画で隠れたファクターになっている仕事観ですが、
元になった雑誌連載の「風立ちぬ」では、二郎が自分の設計を通すためにさまざまな策を弄していて、狡猾ともとれる面が描かれています。
 宮崎監督は以前「カリオストロの城」を短期間で制作しなければならなかった時、スタジオ入り口に自分の机を置き、スタッフを帰りづらくして遅くまで働かせようとしたといいます。監督の言う"力を尽くして事を成す"とは、いい仕事のために手段を選ばないところがあって、仕事論として興味深かったのですが、映画ではそんな描写が無くなっていて拍子抜けでした。
まあ、あのまま映画にしていたら" 二郎っていやなヤツ"と思われたからでしょうけど(笑)。

 そしてラスト。最後になってゼロ戦に言及してるのですが、
ここが一番感動的でした。
夢を追って誰よりも優れた業績を上げたのに、その結果は。。。
 宮崎監督は庵野秀明を吹き替えに起用した理由について、
「現代で一番傷つきながら生きているから」と語っていました。
吹き替えの成否はともかく、ラストシーンでその意図が痛みとともに理解できたのでした。                                        (☆☆☆☆)
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by am-bivalence | 2013-08-09 22:50 | アニメ | Comments(0)

SCREEN129 ニーチェの馬

 生きることは"苦役"なのだろうか 公式サイト

 今年最初に観た映画はT田馬場W稲田松竹の2本立てでした。
そのうちの1本が、この「ニーチェの馬」。 観終わった後の正直な感想は、
 "新年早々、こんな重たい映画を観てしまうなんて。。。"
でした。
ユーモアなど全くと言っていいほど無く、世界がじわじわと破滅に向かって行く閉塞感に押し潰されそうになる映画だったのです。
この閉塞感は私を鬱な気分にさせてくれました(苦笑)。
これほど鬱屈した後味を残した映画は、ラース・ホン・トリアー「メランコリア」で絶対的絶望とそれに対峙した時の人間模様を観せられて以来でした。

 この映画が紹介される時はタイトルにもなっているニーチェ晩年のエピソード、
働くのを拒んで鞭打たれている馬にニーチェが泣きながら抱き付き、発狂したという逸話が紹介され、それにインスパイアされて映画が出来た云々が言われます。
映画冒頭にもその逸話がティロップされますが、実際のところ、映画を観ている間はほとんど逸話を気にする必要はないと思います(笑)。
劇中、馬は出てきますが、この馬がニーチェの馬だとは一言も言ってませんし。。。
 この映画の構成はシンプルで、農夫の父と娘が繰り返す生活を6日間ずっと追い続けるだけです。
映画全体の雰囲気は予告編から受ける印象そのまま。
白黒の映像に重苦しい管弦楽のBGMが被さり、戸外は常に強風が吹き荒れています。

 この映画を観ていて感じさせられるのは”生きていることは苦役である”ということです。
戸外に吹き荒れる強風は水を汲みに行くことさえ困難にし、親子の生活を妨げます。
親子は朝起きては着替え、水を汲み、薪割りなどの労働をする生活を繰り返します。
父は右腕が麻痺しており、不自由な体を娘に補助してもらい着替えなければなりません。
毎日の食事は茹でたジャガイモ1個だけという極端に簡素なもの。
そこに喜びは無く、ぎりぎりの生活をただ義務的に日々続けているような日常です。
 それは極限まで切り詰められた人間の生き様、さらには、生命の本質をも象徴しているように思えます。
ただ生まれ、生き、死んでいく生命のありようの象徴です。

 ちなみにこの映画は観る者にも"苦役"を強いるようです(笑)。
普通の映画なら90分で終わってしまうような内容を2時間34分という長尺で、
繰り返す日常を延々と見せられます。
しかも全編で30カットしかないという長回しシーンを注視し続けなければならないのです。

 ただ、父と娘の6日間は全く同じ日々では無く、少しずつ"何か"を失っていきます。
やってきた隣人には世界がひどい有様になっている噂を聞き、
馬は何故か働かなくなり、何かに脅えたようで餌も食べなくなります。
やがて井戸も涸れ、ついには信じがたいものまで失って窮地に陥ってしまうのです。
 何かを失っていく世界、これは"老い"や、生物が死へ向かって行く命の終焉を象徴しているようです。
老いていくというのは今まで出来ていたことが出来なくなっていくことであり、
個体にとって死とは、「ドニー・ダーコ」で看破されたように、世界の終りと同義なのですから。
この映画が6日間の出来事であるのも、神が6日間で世界を創ったことに対比させているそうです。

 そしてラストシーンでの父親の行動。
その姿をどんな状況でも諦めない希望と取る人がいるかもしれませんが、
私には、世界が終わりを迎え死が面前に迫っていても生命は最後まで生きる営みを止められないものだということを表象しているようにしか見えませんでした。
死が目前の状況にあっても、最期の瞬間まで心臓は鼓動を続けるように。

 。。。ところで、ニーチェは鞭打たれる馬に何を見たのでしょうか。
鞭打たれながら生きている馬に、人間の本質を見たのでしょうか。
人生は厳しく時に冷酷で、生は本質的に苦役なんでしょうか。
生命はただこの世界でもがきあがくために死を宿命づけられて生まれてくるのでしょうか。
だとしたら、命にはどんな意味があるのでしょうか。。。

 この映画の世界観は、よく観るとかなり恣意的に形成されているように思えます。
 ジャガイモ1個の食事は、生物にとってエネルギーを補給することが食べることの本質と捉えています。
そこには美味しいものを食べる愉楽はありません。
 主人公二人が父と娘で、夫婦でないのも意図があるようです。
父娘は親子というより主人と使用人のようにも見えます。つまり、愛情が感じられないのです。
 この映画は人生で喜びや意義となるもの、
食欲、愛情、人との結びつきといったものを慎重に拭い取っているのです。

 人はパン無しでは生きられないけれど、パンのみで生きているものでもありません。
むしろパン以外に生き甲斐を見出すのが人間の本質ではないでしょうか。
                               (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2013-03-08 00:54 | 人間ドラマ | Comments(0)
 キャラクターの成長とともに主題が変化していく映画には、さらに裏テーマが?  公式サイト

 この夏は映画の大作、話題作が豊富な年でした。
続編、リメイク的なものが多いのも特徴。

 傑作と言われる前作のプレッシャーをものともせず、
3部作を手堅く締めくくった「ダークナイト・ライジング」、

 「エイリアン」の皮を被った"ムー"だった「プロメテウス」、

 オリジナルだけでなく「ブレードランナー」、「フィフス・エレメント」といった
SF映画の雰囲気を盛り込んだ正統派SFアクション「トータル・リコール」、

 公開館が少ないので名作のリメイクで話題を狙っただけのキワモノかと思っていたら、
意外によく出来ていた「遊星からの物体X ファースト・コンタクト」、

"これが映画だ"と大見得を切ってるけど。。。の「アベンジャーズ」など、など。

 さてこの夏の話題作で気になったのが、
「時をかける少女」で一躍有名になった細田守監督最新作、
「おおかみこどもの雨と雪」。
ちょっと変わった映画でした。
なにしろ映画の進行とともに主題(テーマ)が変わっていくんです。

 冒頭は花と彼(おおかみおとこ)のラブストーリーと家庭の形成物語。
中盤はシングル・マザーとなってしまった花の子育て奮闘記。
終盤は二人の子供、雨と雪のアイデンティティーの確立と自立の物語。
 3つの主題が一本の映画となっているのは、お得といえばお得(笑)ですが、
観終わると、母親の物語だったのか、子供たちの物語だったのか、
印象が散漫になってしまうのが難点です。

 もうひとつ引っかかったのが、なぜ「おおかみこども」なのかということ。
細田守監督、子育てする女性のかっこ良さを描きたかったと語っていますが、
それだけなら「おおかみこども」である必然性は無いはずです。
 では、田舎暮らしを描くうちに「もののけ姫」のように自然対人間のテーマも盛り込むため、
自然の象徴として「おおかみこども」にしたのでしょうか。
でもここで描かれる「おおかみこども」は自然側の象徴としては少し違和感があります。
「おおかみこども」は人間に比べれば野性的かもしれませんが、
彼ら自身、野生動物からも畏れられる(疎まれる)存在ですし、
野生生活に入るにはそれなりの"訓練"が必要でした。
 また、「おおかみこども」はティム・バートンが好んで描くような
異形(変人、おたく)の象徴という意見もあります。
でもそれは個性であって"血統"とはちょっと違う気がします。

 では「おおかみこども」とは何なのか。
誤解を恐れずに深読みすれば、「おおかみこども」、「おおかみおとこ」は
混血や在住外国人の暗喩として、裏テーマ的に設定されたのではないのでしょうか。
ちょうど「千と千尋の神隠し」が"風俗で子供を働かせる親"という裏設定があったように。
 そう考えると終盤子供たちが"人間社会"の中で自分たちの属性に悩み、
それぞれ別の道を歩み始めるのが、すんなり受け入れられるのです。
社会の偏見に悩まされながら子育てする混血児のシングルマザーと、
成長するに従い、自身のアイデンティティーに揺らぐ在住外国人の子供達、
そんな比喩に思えてきます。
 おおかみこども達の父である彼(おおかみおとこ)の名前が出てこないのも意味深です。
名前は国籍を端的に表しますから。。。と、これも深読みしすぎでしょうか。
                            (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2012-08-31 00:58 | アニメ | Comments(0)
 誰にも言えない、言いたくない、想いを抱えて 公式サイト

 この映画、観たのは2月なのですが、ずっと心の隅に引っかかっていました。
物語の核心ともいうべきところをどう解釈していいのか、分からなかったからです。
(以降はネタバレになるかも知れません。気にされる方は映画を御覧になってから読んでみて下さい。)

  9.11で大好きな父親を失った少年オスカーが、父の遺品の中に鍵を見つけ、その意味を探そうとするこの物語。
オスカーは性格的に人と接するのが苦手で、自分を鼓舞するためにタンバリンを持ち歩き鳴らしながら、人を訪ねて歩きます。
 当初観客には、オスカーが父の面影にこだわり続けるのは、父への思慕や、父を失ったことを受け入れたくない感情からのように見えていました。
ところが終盤になって実はそれだけではなく、オスカーはある罪悪感からも父の死に捉われていたことが明らかになるのです。
 なぜ映画(原作)は、オスカーにそんな"罪"を負わせる宿命を課したのでしょう?
喪失感を描くだけでも物語として十分成立するはずなのに?

 映画には途中からオスカーと行動を共にする、言葉を失くした老人が登場します。
彼は昔のある出来事によって声を出せなくなったらしいのですが、彼の過去に何があったのか、老人は語りたがりません。
 また、オスカーが鍵の出所を探して訪ね歩く人々は、どれも一癖ある人たちばかりです。
  離婚寸前の夫婦、
  話をしていると何度もハグしてくる人、
  話を聞こうともせずに追い返す人。。。
彼らがそうするには何か”訳”がありそうなのですが、映画ではそれらは一切語られません。
 なぜ意味ありげな人達を登場させておきながら、一切説明をしないのでしょう?
9.11という一般には理解しがたいテロによって奪われた人々、
不条理なこともあるがままに受入れよという示唆なのでしょうか?

 先月は3.11から1年、
TVではその日が近づくと3.11の特集番組がいろいろ放送されました。
私は幾つかを部分的に観て、幾つかを記録として録画しておいたまま、
ずっと放置していました。
私は首都圏にいて大きな被害を受けたわけでもないのですが、
あの頃を振り返るのはまだちょっと気が重かったからです。
 最近になってそれらを観始めた時、ふと思いました。
未曾有の災害を前にして、我を失った人たちは少なくなかったはずです。
気が付くと目の前に迫る大津波に、我先に逃げ出していた人、
傍にいた人に手を差し出せば助けられたかもしれないのに、
自身の危険を感じて手を伸ばせなかった人。
あの時何かもっとやれることがあったはずと、悔んでいる人もいるはずです。
 そういった人達は今、心の奥に後ろめたい罪悪感を抱えているかもしれません。
でもそんな想いは誰にも話せないし、話したくないでしょう。

 「ものすごく…」のオスカーが罪悪感という秘密を抱えていたのは、
そんな人達を代弁するためだったのではないでしょうか。
口がきけなくなった老人も過去にそんな経験をしたために、
それを打ち明けたがらないのでは?
オスカーが出会うちょっと変わった人達も、
なにかしら似たような傷みを抱えて生きているのでは?
 だとしたら、生き辛いのは自分だけではなく皆同じ、誰もが何かしら持っているもの。
あの時は勇気が出なかったけれど、今度はタンバリンを鳴らして向かっていこう、
次はもう少し前に踏みだせる。。。
 そんなことをあの映画は伝えたかったのではないでしょうか。

 そう思い至った時、あの物語が2ヶ月目でやっと腑に落ちた気がしたのでした。
                                      (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2012-04-13 22:20 | 人間ドラマ | Comments(0)
 3D演出が楽しい3Dで観るべき映画  公式サイト

 「アバター」のヒット以来、完全に市民権を得た3D映画。
「でも3D映画って、単に奥行きがあるだけじゃん」って思っているあなた、
3D映像の表現力を侮ってはいけません。
そういう人にはこの「ヒューゴの不思議な発明」を観て頂きたい。

 冒頭、カメラがパリの駅構内を横断していく1ショット撮影から始まって、
ヒューゴが住む迷宮のような駅舎内を縦横に動き回る時の臨場感。
 あるいは後半の映画撮影スタジオで水槽越しに海底シーンを撮るカットの
実際に水槽を前にしているようなリアリティ。
 駅構内でヒューゴが彼を目の敵にする鉄道公安官に尋問されるシーンでは、
「ボラット」の怪優サシャ・バロン・コーエン演じる公安官の顔が飛び出して迫ってくる
演出に、おもわずニヤリとさせられました。
スコセッシ監督、3Dで遊んでます(笑)。
 最初、スコセッシ監督が3D映画を作ったのが意外でしたが、
実際に映画を観てみると、監督自身、以前から立体映像が好きだったというのが分かる気がします。
昔の記録映画のカットをコンピュータで3D化してみせるのも、
こんな使い方があったかと、ちょっと新鮮でした。

 もう一つ意外に思っていたのが、「タクシードライバー」「ディパーテッド」の
スコセッシ監督が児童文学を映画化したこと。
お孫さんにも観せられる映画を撮っておきたかったのかと思ったのですが、
(実際に娘さんに観せられる物を作りたかったのも動機だそう)
話の中核が最初のSF映画と言われる「月世界旅行」を撮ったジョルジュ・メリエスだったことで納得しました。
スコセッシ監督、フィルムの退色問題に抗議して「レイジング・ブル」を白黒で撮ってたんでした。
古い映画への憧憬、保存問題への造詣の深さは人一倍のはず。
この原作を映画化するのはスコセッシ監督ならではの選択でした。

 出演陣もクリストファー・リー、ジュード・ロウと豪華ですし、
ちょっとハツラツ演技過剰ながらクロエ・グレース・モレッツも可愛い(笑)。
蒸気と歯車のレトロな世界観は好みが分かれるかもしれませんが、
どんな年齢層でも楽しませてくれる映画なのでした。
                                 (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2012-03-24 23:15 | ファンタジー | Comments(0)

SCREEN125 エル・スール

スペイン内戦を知らないと理解できない、
    観る者の想像を刺激する未完映画


 日本映画の名匠小津安二郎監督は映画について、
“言いたいことは隠せ”と言っていたそうです。
“観客に解らなくてもいい、隠せ”とまで言っていたとか。
ビクトル・エリセ監督のスペイン映画「ミツバチのささやき」はまさにそんな映画でした。
フランコ政権下で製作された「ミツバチのささやき」は、
体制批判やスペイン内戦が隠喩として含まれていました。
 「ミツバチのささやき」の10年後、1983年に製作された「エル・スール」も
結果的に主題を隠す形になってしまった映画のようです。
当初製作されるはずだった後半部分が予算不足で撮影できず、
劇中描かれている父親をめぐる幾つかの謎が残されたままになっているからです。
でもそれが観客の想像を掻き立て、観た者に大きな余韻を残す映画になりました。

 舞台は1957年のスペイン北部、娘エストレリャが枕元に愛用の"振り子"を残して去って行った父の思い出を回想する形で映画は進みます。
医師である父は"振り子"を使って水脈を探り当てたり、
生まれてくる子供を娘だと言い当てたりする、不思議な才能も持っています。
 敬愛する父が祖父と"ケンカ"し二度と故郷の南に戻らないことを聞き、
エストレリャは南に興味を持ち始めます。
エストレリャの初聖体拝受の日、南から祖母と乳母が立ち会うためにやってきますが、
父は裏山で猟銃を撃っていて手伝おうともしません。
式にも隣席せず、教会の物陰で見守るだけの父。
ある日エストレリャは父がイレーネ・リオスという女性を密かに思い、
彼女と関わりがあることを知ります。。。

この映画は苦悩する父を見つめる少女の成長物語と解説されることがありますが、
それにはちょっと違和感を感じます。
この映画では少女は身体的に成長していても、精神的にはまだ成長できていないからです。
それは製作されるはずだった後半部分、少女が南部で父の過去を知ることで
成されるはずだったのかもしれません。
監督がこの映画を不完全と呼んでいるのはそんなところにもあるのではないでしょうか。

 この映画の真の主役は娘の視点を通して間接的に描かれた父とその過去です。
映画の舞台はスペイン北部なのに、タイトルが父の過去がある南部を指す
「エル・スール」であるのがそれを象徴しています。
その父の苦悩、無念、憤り、孤独は、スペイン内戦を知らないと正しく理解できないと思います。
 以前「パンズ・ラビリンス」でも触れましたが、
スペイン内戦は自由主義、社会主義政権だった第二共和制政府が
フランコのファシズム反乱軍に敗れた戦争でした。
第二次大戦後もスペインは唯一ファシスト独裁政権が続き、
共和制の残党は弾圧されていたのです。
父親はその共和制側で、内戦後故郷の南部から北部へ逃れてきたようです。
劇中乳母ミラグロス(同名の乳母は「ミツバチのささやき」にも登場します)
が語ったように、父は共和制側、祖父は反乱軍側であり、
肉親と言えど対立、罵り合ったのは、スペイン内戦の一つの典型でした。
 娘の聖体拝受式に父親が参加しようとせず、
裏山でうっぷんを晴らすように猟銃を乱射していたのも、
保守的教会勢力は反乱軍を支持したため共和制の敵だったからでしょう。
(サグラダ・ファミリアが内戦時に破壊の対象となり、
建設続行不能と言われるほど痛手を受けたのもこのためでした。
戦争ではどちら側にも正義はないのです。)

 映画はエストレリャが南へ旅立つ所で終わりますが、
この映画には原作小説があって、原作では南での出来事も描かれています。
彼女は南で父が連絡していた女性を探し、異母兄弟に会うことになるのです。
ただ、南でも父の過去について新たに判明することはあまりありません。
原作は映画と異なる点も多いのですが、映画の後半が作られたとしても、
原作と同様、父に昔何があったのかは結局隠されたままで、
観客の想像に委ねられたのかもしれません。
                           (☆☆☆☆)
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by am-bivalence | 2012-03-10 13:51 | 人間ドラマ | Comments(0)

SCREEN124 マネーボール

 理論じゃない人間的な球界裏事情ドラマ 公式サイト

 今年10月5日、アップルのスティーブ・ジョブズ氏が亡くなりました。
享年56歳、まだまだ活躍できる年齢での死去が惜しまれます。
 彼のキャラクターは強烈で、毀誉褒貶の激しい人でした。
私には、ジョブズは技術者というより、
(いろいろな意味で)アーティスト的感覚を持った辣腕経営者、
魔術的な能力を持ったプレゼンの天才といったイメージがあります。
個人的には、その稀有な人物像は興味を惹かれますが、
一緒に仕事はしたくないなぁ、というのが正直なところです(笑)。
 ジョブズがペプシ・コーラのスカリーをアップルに引き抜くとき、
「一生、砂糖水を売っていたいか、それとも世界を変えたいか」
と言ったのはよく知られた話です。
ジョブズはコンピューターが社会を変え、
若い世代が古い世代と入れ替わることに価値を見出していたようです。
映画「マネーボール」の主人公ビリー・ビーンも、
尖鋭的野球理論で旧態依然だったメジャー・リーグの世界を変えた男でした。

 もっとも実際のビリー・ビーンの動機は球界を変えたいというよりも、
貧乏球団が潤沢な資金を持つ強豪に勝つにはどうすればいいか、
が発端でした。
 「マネーボール」いうタイトルや、
予告編であったように、チームの戦略を考えても
実際の試合は見ないというスタンスから、
主人公はお金や理論でみな割り切ってしまうドライな人間で、
そんな人物像を描くような映画かと思っていましたが、
(脚本家の一人は「ソーシャル・ネットワーク」のアーロン・ソーキン)
実際は違っていました。

 ビリー・ビーンは元選手であり、当初活躍を期待されながら
実績を残せず、ジェネラル・マネージャーに転身した経緯がありました。
映画の中で彼は、過去に多額の契約金に惹かれ、大学進学せずに球界に入ったことに
後悔に似たわだかまりを持ち続けます。
 ビリー・ビーンは球団GMとしては奇妙な2つの習慣を持っています。
 1.自チームの試合を見ない。
 2.自チームの選手とは親しくしない。
映画を観ていくと、実はこれには彼独自の人間臭い理由があるのが判明します。
そう、この映画はとても人間的なのです。
登場する人物はみな、欠陥や問題を抱えています。
そんな彼らが敗者復活していくところがいいんです。
 故障によって選手生命が危うくなっていた捕手が
突然自宅にやって来たビリーから一塁手として契約のオファーを受けた後に
家族とそっと抱き合うところなどは感動的です。

 でもそこはやっぱりアメリカ社会、選手を解雇するのもドライで、
シーズン中でも まるでカードを交換するように簡単に
球団間で選手をトレードする様子に驚かされました。
厳しく能力を問われるプロの世界だから尚更なんでしょう。
ビリーが獲得した選手を起用しない監督との駆け引きも面白いです。
フィリップ・シーモア・ホフマンが「カポーティ」とは打って変わって
いかにもメジャー・リーグの監督といった雰囲気で好演してます。

 ジョブズはスタンフォード大学の卒業式で行った有名なスピーチを、
影響を受けた本の一節を引用し、
 "Stay Hungry. Stay Foolish."
 (貪欲でいろ、無謀でいろ)
と言って終えました。
 ビリー・ビーンも、強豪球団から高報酬の誘いを受けたとき、
傍から見るとfoolishな選択をします。
でもそれは彼らしい人生観に基づく、彼にとっては自然な選択でした。
                     (☆☆☆☆)
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by am-bivalence | 2011-12-31 00:14 | 人間ドラマ | Comments(0)

SCREEN122  誰も知らない

 大人としての覚悟を問われる 公式サイト

 10月に早稲田松竹で是枝監督特集があり、
初めて「誰も知らない」を観ました。
同時上映の最新作「奇跡」は今一つだったのですが
(そもそも"まえだまえだ"兄弟があまり好きではない(苦笑))、
「誰も知らない」はずっしりと観ごたえのある映画でした。

 実際にあった子供置き去り事件を題材に作られたこの映画、
内容は重いし、子供たちが追い込まれていく様子に、
観ていて、いたたまれなくなる映画でした。
でも目を逸らすことができません。
彼らがどうなってしまうのか、最後まではらはらさせられたからです。
出ている4人の子供達は自然でいかにも子供らしい。
柳楽君、この頃から真っ直ぐな目力あります。

 子供達を放ったらかしにして悲惨な状況に遭わせてしまう
母親のいい加減さには怒りを覚えますが、
YOU演じる母親はどこか憎めないところがあって、
こんな母親、いかにもいそうに思えてくるのが怖いところです。
キャスティングが絶妙です。
 一見、子供達に愛情を注いでいるように見える母親が、
簡単に子供を見捨ててしまうところは理解し難いかもしれませんが、
子供をペットと同じ感覚で扱っていると思えば、納得いくのではないでしょうか。
子供がちょっと不満を漏らし反抗的になると、プイと見捨ててしまうところは、
犬などを面倒になると簡単にを捨ててしまう人達に通じるように思います。
冒頭、子供をカバンの中に隠して引越して来る様子など、
ペット禁止のマンションに動物を持ち込むような感覚なんでしょうか。

 唯一の救いは兄弟のリーダー的存在である長男の明です。
いい加減な母親とは対照的に、しっかり者で道徳意識を持ち合わせています。
彼は生活に困窮しても、万引きなどの犯罪の誘惑に惑わされず、
援交で生活費を作ってくれた女子高生の友人も拒否してしまうのです。

 それにしても観ているうちに、この母親を単純に非難することが出来るのか、
私には自信がなくなってきました。
 彼女は2人目の子供を出産したとき、
男に捨てられ精神的にかなり不安定だったのではないでしょうか。
出生届を出す気になれないうちに機会を逸してしまい、
そのままずるずると生活を続け、心の痛手を癒すために男を渡り歩いて、
3人目、4人目が出来てしまい。。。
(妄想です(笑))
 面倒なことを後回しにして、そのまま放置してしまう、
まずいことは分かっていてもその状況から抜け出せない。。。
そんなことって誰でも何かしら経験ないでしょうか?
でも実はそれは、面倒だからではなくて、
行動する勇気がないのを面倒とごまかしていないでしょうか?

 YOU演じる母親は明にこう言います、
「私は幸せになっちゃいけないの?」
彼女は全く自覚していなかったのです。
自分を犠牲にしても負わなければならない責任があることを。
自分の事しか頭にない行動が、周囲に多大な負担をかけていることを。

 なぜ子供たちがこんな目に逢わなければならないのか考えるうち、
自分は大人として責任ある行動をしているのか、
自身にも問いかけさせてしまう映画なのでした。
                     (☆☆☆☆)
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by am-bivalence | 2011-12-23 21:27 | 人間ドラマ | Comments(2)

SCREEN121 大いなる西部

 西部劇を否定した西部劇 参照サイト

 午前10時の映画祭には西部劇が6本含まれています。
(「ワイルド・バンチ」「明日に向かって撃て!」
「シェーン」「大いなる西部」「荒野の七人」「荒野の用心棒」)
ジョン・フォード作品やジョン・ウェンが出てこないのが"?"ですが、
ともあれ、私がこの中で一番面白いと思ったのが、「大いなる西部」でした。
 なにしろこの映画、
タイトルからは西部劇礼賛のような映画に見えますが、実際はその逆、
西部劇が暗黙のうちに賛美している"力の正義"や"暴力"を批判し、
ある意味西部劇自体を否定してしまったような映画なんです。
(以下ネタバレ注意)

 「大いなる西部」の主人公は東部からやってきた元船長、ジェームズ・マッケイ。
彼はテキサスの大牧場主の娘パットと婚約し、
東部の生活を捨ててテキサスに来たのですが、
パットの父が経営する牧場は水場を巡って別の牧場と対立していました。
テキサスに着いて早々マッケイは、
敵対する牧場主の息子一党から嫌がらせを受けます。
ところがこの時のマッケイの反応が変わっていました。
憤慨するパットを横に、マッケイは嫌がらせを受けても、
何事もなかったかのように平然としていたのです。
 普通の西部劇ならその場で応酬するか、後できっちりやり返すのが定石でしょう。
しかしマッケイにはそんなそぶりは全く無く、
ちょっと手荒い歓迎を受けた程度にしか受け取ろうとしませんでした。
彼は徹底した平和主義、非暴力主義者だったのです。

 マッケイは"力"を行使したり、誇示することを嫌います。
彼の平和主義は西部の人間には臆病者のように見られ、
やがて婚約者からも失望されて、マッケイは牧場を出て行くことになります。
非暴力を貫くのは、実は暴力に暴力で対抗するよりずっと難しく、
理性と勇気がいるものなのですが。。。
 牧場を出て行く夜、
マッケイは牧童頭のスティーブと二人だけで殴り合いの決闘をするのですが、
最後にマッケイは吐き捨てるように言います。
「これが何の証明になった?」

 西部劇と言えば卑劣な悪漢を正義のガンマンが撃ち倒すのが一つのパターン。
「シェーン」などはその典型、爽快な勧善懲悪がカタルシスを生む、娯楽の王道です。
でも、それって冷静に見れば殺人じゃないですか?
銃に対抗して銃で決着を付ける、最後は正義の名の下に力が物を言うわけです。
西部開拓時代、法の庇護が及ばない広大な土地では、
そういった事はどうしても必要だったのでしょう。
開拓者が無法者、大自然の猛威といった様々なものから身を守るために
頼れるのは自分自身しかなかったからです。
自立自衛が開拓者精神、アメリカ人の精神的原点でもあります。

 ただ、力に力で対抗する時、無法者とヒーローの境界は
"正義を行っている"という一点だけです。
でもその正義が相手の立場からは悪だったら?
各々がそれぞれの立場で正義を主張したらどうでしょうか。
それは、自分が正しいと思えば力づくで相手に従わせてしまう危険性を孕んでいます。
 そして強さが物を言う世界では、マッチョな男らしさを信奉し、
臆病者を毛嫌いするメンタリティが生まれてくるのです。
(今年公開の「ツリー・オブ・ライフ」にも息子に強くあることを強要する父親
が描かれていますが、この舞台がテキサスであるのも無関係でないと思います。)

 「大いなる西部」でも仇の牧場主ヘネシーにも言い分があって、
彼の主張も正当性があるように描写されています。
 マッケイは何とか両者を和解させようと模索するのですが、
水場を争う対立はエスカレートしていき。。。
 私は途中までこの映画が、ひょっとしたら人が死なない
珍しい西部劇なのかと思いながら観ていました。
さすがに娯楽映画、そうは行かなかったのですが、
それは非暴力という理想の限界を表しているんでしょうか、
次の世代に新しい時代の変革を託してるんでしょうか。

 原題は"The Big Country"。
映画では広大な西部の風景が写りまさにビック・カントリーだと思わせますし、、
劇中でも何度か「ここはビック・カントリーだから」と誇らしげにテキサス人が言います。
その時マッケイは「海の方が大きい」とつぶやいて、その独善性を静かに揶揄するのです。
(実際、アメリカ内陸部では生涯一度も海を見ない人も少なくないそうで。
マッケイが元船長という設定が生きています。)

 西部劇全盛の1958年にこんな映画が
2時間46分の大作として作られたのはちょっと驚きでした。
スェーデン出身作家の小説を原作にしているそうですが、
ドイツからアメリカに移民してきたテイラー監督だから
冷静にアメリカ人の精神性を観ていて、原作小説に興味を持ったのかも知れません。
 午前10時の映画祭の西部劇を全部観ておいて
一番面白かったのがこんな西部劇らしくない西部劇という私も、
本当は西部劇が好きでなかったりして(笑)。
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by am-bivalence | 2011-10-15 01:45 | 人間ドラマ | Comments(0)