劇場で観た映画の覚え書き


by am-bivalence
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SCREEN120 木を植えた男

 ”木を植えること”が意味するもの  参照サイト

 7/2~10/2の間、東京都現代美術館でカナダ在住のイラストレーターでアニメーション作家のフレデリック・バック氏の作品を展示するフレデリック・バック展が開かれています。
 これに合わせ都心でフレデリック・バック氏のアニメが上映されているのを知り、観に行ってきました。
上映作品は「木を植えた男」「トゥ・リアン」「大いなる河の流れ」「クラック!」の4本。
日によっては特別にフレデリック・バック氏の全9作品を観ることができます。

 「木を植えた男」は1987年制作のアニメーション映画。
一人の羊飼いが人知れず黙々と荒野に木を植え続け、
蘇った森に生き物が戻り、世界が再生していくという感動作です。

 バック氏のアニメは、つや消しフィルムに色鉛筆で直接描くという独特の技法で、
その画面は、まさに動くパステル画といった雰囲気。
「木を植えた男」は後半森が蘇生していくにつれ、色彩が豊かになっていきます。
手書きで動く絵の揺らぎが、そのまま木々の葉がそよぐ煌めきとなって美しく表現されていたりします。
 フレデリック・バック展ではその原画が展示されていますが、
私が驚いたのは、その原画の画面サイズがはがきほどの大きさしかなく、
そこに色鉛筆で非常に緻密に絵が描かれていることでした。
バック氏は作品によってタッチを変えていますが、
「大いなる河の流れ」では写実的な生物をはがきサイズの画面に精緻に描いています。
これがアニメーションのたった1コマだと思うと、バック氏の画力、
作業の膨大さ、早さに感嘆させられます。
(しかも「大いなる~」が制作されたのはバック氏が65~69歳の時です)

 バック氏のアニメは何かしら文明批評や環境保護の精神を含んでいます。
「木を植えた男」はジャン・ジオノの原作を映画化したものですが、
これにもバック氏のその精神は反映しています。
バック氏がこの原作に強く惹かれたのも、木を植えるという行為が
環境問題と大きく結び付いていたからでしょう。
 ただジャン・ジオノの原作は環境問題だけでなく、
いろいろなテーマを含んでいるようです。
私にはこの木を植えるという行為は単に自然保護を示すだけでなく、
理想の政治というものを暗喩しているように思えます。
社会環境を整備することで人の住みやすい社会が生まれ、
人々が集い幸福になっていく。。。
それが私利私欲でなく、代償を求めずに行われるのです。
 主人公が羊飼いであるのも、暗示的です。
キリスト教社会では羊飼いは迷える羊を導く救世主のシンボル、
転じて優れた指導者の象徴でもあるからです。
                     (☆☆☆☆☆)
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by am-bivalence | 2011-08-05 23:04 | アニメ | Comments(0)

SCREEN119 冬の小鳥

 受け入れがたい現実を容認していくとき、人に起こる変化 公式サイト

 NHK教育に「名作ホスピタル」っていう番組があります。
昔のアニメを題材に心や体の健康を考える番組なんですが、
キャストの中川翔子ちゃんのオタクっぽいところが好きで、毎回何となく観てます(笑)。
 前回は「大切なものを失ったとき」がテーマでした。
番組によると、人はかけがえのないものを失ったとき次の段階を経て感情が変化し、
現実を受け入れていくそうです。
 1)パニック(号泣、混乱等)
 2)否認、怒り(そんなのウソだ!、何で私がこんな目に遭うのか、等)
 3)取引(良い子にしているから返して下さい、等)
 4)抑うつ(何もする気が無くなり、虚無的になる)
 5)受容(失ったことを現実としてあるがままに受け入れる)
人はこの段階をきちんと踏まえた方が早く感情が安定するとも言います。

 知っている人ならすぐ気付いたと思いますが、
これはキューブラー・ロスの言う、人が死を受け入れる際の心理とほぼ同じです。
ロスは著書「死ぬ瞬間」で、不治の病に侵された人が死を受け入れていく過程の観察から、人の心理は段階を追って変化し最後は静かに死を受け入れていくとしました。
番組で示されたモデルはこれを応用・発展させたもののようです。
大切なものを失った場合も、死を目前にした場合も、
受け入れがたい現実を容認する心理過程は同じ、という事なのでしょう。
 韓国映画「冬の小鳥」を観ていたら、この事を思い出しました。

 映画「冬の小鳥」は1975年の韓国を舞台に、
大好きな父親に孤児院に置き去りにされた少女ジニの物語。
 この映画、プロデューサー、キャスト、撮影が韓国のせいか、韓仏合作の韓国映画となっていますが、監督のウニー・ルコントは幼少の頃フランスに里子に出された韓国系フランス人。自身の体験を元に書いた彼女の脚本が注目され、制作されたそうですが彼女はずっとフランス映画界に関わっていて、彼女自身は韓国語も忘れてしまっているそうです。
実はこの映画、韓国映画の皮をかぶったフランス映画とも言えるのではないでしょうか。

 それはともかく、この映画の一番の魅力は主人公であるジニです。
演じるキム・セロンの可愛らしさもあるのですが、
父に突然孤児院に預けられたジニがとる反抗が、とても子供らしく自然です。
例えば孤児院での初日、ジニは置き去りにされたことが信じられず孤児院に入るのを拒否し、夜真っ暗になるまで庭の片隅でずっとうずくまっています。
この意固地さと不安感、私は子供の頃の似たような体験を思い出しました。
 大人に反抗する子供と言えば、「大人は判ってくれない」のコレット君ですが、
彼は平気で嘘をついたりするちょっと悪ガキで、少し理解しがたいところがあるのに対し、
ジニの感じる戸惑い、不安、怒り、そして世界への不信感はよく理解できますし、
そこから生じる彼女の反抗も共感できます。
孤児院のジニは「害虫」のサチ子のように寡黙で、笑いません。

 孤児院にいる事実を拒否し、周囲から孤立していたジニも、
次第に父親に捨てられた現実、孤児としての生活を受け入れざるおえなくなります。
この過程が冒頭の「大切なものを失ったとき」と似た部分があって、あの番組を連想させたのでした。
孤児院の友達との間に起きたつらい出来事の後、父との繋がりが無くなった事実を知った時、怒っていたジニは抑うつ状態になっていきます。
この後ジニは、ある通過儀礼的行為を行ったことで、態度が大きく変化するのです。
ここはある意味「死ぬ瞬間」のようで象徴的です。
人が受け入れがたい事実を認めるには、このような過程が必要ということでしょうか。

 ジニは最後まで父を慕う感情を失くしませんでした。
親への盲目的信頼がまた子供らしくて、胸を締め付けるのでした。
                            (☆☆☆☆)
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by am-bivalence | 2011-05-22 23:03 | 人間ドラマ | Comments(2)

SCREEN118 風と共に去りぬ

不朽の大河メロドラマ、前半のラストがすごい 参照サイト

 もう何度もTVやDVDで観ていながら、大スクリーンではなかなか観る機会がなかった「風と共に去りぬ」、午前10時の映画祭でやっと劇場で観ることができました。
劇場だと序曲や終曲も上演されるのがうれしい限りです。
 この一大大河メロドラマ、制作年が1939年と映画祭中最も古い作品なのにカラーであるのもすごいのですが、今でも使われる恋愛ドラマのパターンが既に出来上がっているのにも驚かされます。
勝気で自分に率直なヒロインや、不良っぽくて包容力がある男性に反発しながら惹かれるさま、
お互い気になりながら すれ違いを繰り返すじれったさ。
不朽の名作として今なお観られているわけです。
(旧作なので以下ネタバレ気にせず書きます。 気になる方は飛ばして下さい。)

 今回じっくり見直して、今更ながら気付いたのは、
自分の意志でやりたいように生きた印象だったスカーレット・オハラが、
実は、ままならない人生に翻弄されていて、いつも決して満たされず幸福でなかったこと。
 そして、初めて観た時は気の強いスカーレットがそれなりにチャーミングに見えたのに、
今改めて観ると、単にわがままで幼稚な女性にしか思えず、魅力が無くなってしまったこと。
逆にあまりにも優等生的でリアリティがなかったメラニーのほうが、その純真さと聡明さに人間的にも惹かれたこと。 レッド・バトラーもメラニーには一目置いていたのが今になって理解できました。
 この変化は自分が年とったせい(笑)もあるかもしれませんが、現代の人々の変化、
今の世の中、スカーレットのようなキャラはありふれてしまって、メラニーのような人間こそ少なくなってきたからのような気がしてなりません。

 「風と共に去りぬ」と言えば名セリフ、
  「明日は明日の風が吹く(After all, tomorrow is anather day.)」
と共に、絶望的状況でも明日へ希望を託すラストシーンが有名ですが、
私はそれよりも前半の最後が強烈に印象に残っていて、何度観ても感動してしまいます。
スカーレットが空に向かって独白するシーンです。

 陥落するアトランタから必死の思いで脱出し、
故郷タラに戻ったスカーレットが直面したのはタラの惨状でした。
財産はおろか食糧さえ無く、ひもじさのあまり、畑に残った大根を掘り出し齧りつくスカーレットは
惨めさに思わず嗚咽してしまいます。
でも次の瞬間スカーレットは立ちあがり、天を仰いでこう宣言するのです。
 「神様に誓います、こんなことで私は負けません。
 私は生き抜いてみせます、これを乗り越えて、二度と飢えたりしません…
 たとえ嘘をつき、盗み、騙し、人殺ししなくてはならなくてもです。
 神様に誓います、私はもう二度と飢えません!」

これはすごいと思いません?
神に向かって「生きるために人殺しもいとわない」
と言ってしまうんですよ。
人間としての誇りを取り戻すために、全てを奪った神への宣戦布告とも受け取れる
言葉を口にするスカーレットの強烈な意志と生命力、そして覚悟。
 実際このあと、スカーレットはその言葉を図らずも実行していく強靭さを示しますが、
反面、後になって悪夢にうなされる人間的な面も描かれているのがこの映画の深いところ。

 生き抜くために犯罪をも肯定することの是非はともかく、
(これ、非常時の略奪や暴動を肯定する論理なんです)
このスカーレットの強さこそ、今の日本に必要ではないでしょうか。
                      (☆☆☆☆☆)
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by am-bivalence | 2011-05-03 17:21 | ラブストーリー | Comments(0)

SCREEN117 害虫

宮崎あおい、蒼井優のファンは必見だが、観客に観察力を要求する映画公式サイト

 本作は2002年に公開されたもの。
今や日本を代表する若手人気女優となっている
宮崎あおいと蒼井優が15歳の時に共演した貴重な映画です。
二人とも若い、というより幼い! 彼女達のファンであれば必見!
。。。と言えるでしょうが。。。ただこの映画、観客を選びます。
つまらないと言う人もいれば、傑作と言う人もいて、人によって評価が大きく分かれるようです。

 ともかくこの映画、説明をしない映画です。
セリフが少ないというのもありますが、
(主人公サチ子(宮崎あおい)は寡黙な少女で、なかなか感情を表に出しません。
いつもポケットに手を入れて歩く様子は、何かを秘めているようで象徴的です。)
意図的に分かりにくく場面を切り取って見せているのです。
 例えば冒頭からいきなり、女性が手首を切って自殺しようとするシーンで始まりますが、
彼女がサチ子の母親であるのが分かるのは後になってから。
しかも彼女が自殺しようとした理由は、最後まで分かりません。
分かっているのは彼女が自殺未遂を起こしたという事実だけ。

 サチ子が母親と二人暮らしの母子家庭であるのも、何か訳有りのようですが、
映画の本筋と関係ないためか、これも全く説明なし。
 途中要所要所で、字幕の文章が出てきますが、
それがサチ子とサチ子の担任だった元小学校教師とがやり取りする
手紙の文章であるのが分かるのも、しばらくたってからです。

 極めつけは、予告編にも出てくる住宅が燃えているシーン。
この映画の中で重要なエピソードなのですが、
この家が誰の家なのか判別できるのは、火災が起こるずっと前の1カットだけなのです。
(私も始め、燃えているのが×子の家とは気付かず、それを知った時は驚きました。
なぜ彼女の家が標的にされたのか、私は未だにはっきり理解できていません。
どなたか分かる人は教えて下さい。)
 ともかく、今どきの全てが腑に落ちるように構成された観客に親切な映画と違い、
観る者に注意力と考えることを要求する映画です。

 さらにこの映画、観ると気が滅入る映画に属するというのが、
人によって好き嫌いが分かれる点でもあります。
「モンスター」や「火垂るの墓」などと同じで、なすすべなく転落していく人を描いており、
最後はぷつんと断ち切られたような終わり方。
何ともやるせなく、後を引くエンディングです。

 監督は「黄泉がえり」「どろろ」の塩田明彦監督。
監督は「サチ子こそが害虫であり、ゴジラである」と言っているそうです。
シニカルで悪意を含む「害虫」という比喩をタイトルにしたのは
脚本を書いた女性、清野弥生だといいます。
周囲の男をみな惹きつけ、不幸にしていくサチ子を
女性として許せなかったんでしょうか(^_^;)。
サチ子はただ存在していただけで、意図して人をおとしめようとした訳ではないのに。
本人に悪意は無くとも社会的に有害であるから「害虫」なんでしょうけれど。

 監督はこの映画の続編の構想も語っているそうですが、
「どろろ」の続編もままならなかったのに、どうなんでしょう?
実現したらすごいことです、私は「どろろ」の続編よりも観てみたいと思います。
                    (☆☆)
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by am-bivalence | 2010-12-08 23:12 | 人間ドラマ | Comments(0)

SCREEN115 17歳のカルテ

多感でバランスを失いやすい思春期のもう一つの姿に共感 参照サイト

 「午前10時の映画祭」を観るようになってから、往年の名画を劇場で観ることが面白くなり、最近は都内の名画座にも通うようになってしまいました。
今のお気に入りは、高田馬場の早稲田松竹
週替わりで2~3本立てをやっていて、料金は一般1300円と、とってもリーズナブル(^_^)。
2003年頃改装し生まれ変わったらしく、シートの足元が広く快適なのも嬉しい点です。
 その早稲田松竹で今週(10/9~15)は「17歳のカルテ」と「プレシャス」を上映しています。
「17歳のカルテ」は封切当時、恵比寿ガーデンシネマまで観に行って、お気に入りの一本になった映画でした。
 実は私のハンドル・ネーム「am-bivalence」はこの映画のエピソードから採っています。(ちなみに接頭辞としは劇中でも触れているようにambi-です)
当時なぜわざわざこの映画を観に行ったかというと、「エイリアン4」で観たボーイッシュでどこか儚げなウィノナ・ライダーに惹かれたから(笑)。
そんなミーハーな動機とは裏腹に、映画の内容は重くて心に残るものでした。

 簡単にあらすじを書くと、
1960年代ベトナム戦争や民権運動で揺れていたアメリカで、高校を卒業したスザンナは"不安で、頭痛を消したくて"ウォッカとアスピリンを一瓶飲み病院に運び込まれます。
この事件で彼女は境界性人格障害と判断され、そのまま精神病院に入院させられます。そこは心に問題があるとされた同年代の少女たちが収容されている病棟でした。一時的入院と思っていたスザンナはここで反抗的で反社会性病質とされたリサ、虚言症のジョージーナ、自分の顔に火をつけたポリーなどと出会い、2年間過ごすことになります。。。

 境界性人格障害とは、もともと神経症と精神病の境界にあるということで名づけられたのですが、いくつかの特徴を持った患者を指すようになりました。
境界性人格障害の特徴として、
 1)不安定な人間関係(親しくしていたと思うと急にののしる等)
 2)自殺企図、自傷行為、衝動行為(浪費、喧嘩、無謀運転、性的逸脱)
 3)慢性的な抑うつ気分、空虚感
 4)制御不能な激しい怒り
があるそうで、これらは頼っていたもの、愛したものに対する強い見捨てられ不安からくるといいます。
 なにやら一部自分のことを言われているような。。。
私は痛いのは嫌いなので、自傷行為にはちょっと理解が及びませんが、
その他は誰でも多少とも持ち得る感情のような気がします。
(ちなみにDVDの特典映像には未公開シーンとしてリサが手首に自傷行為をしていたエピソードがあります。映画オリジナルのエピソードで映画の中でも後半の展開に絡む割と重要なシーンなのですが、時間的な都合でカットされてしまったようです。)

 依存症、ネグレクト、自殺などシリアスな内容を扱った映画ですが、
全体のトーンは暗くなく、患者同士の連帯や友情を交え、時には笑わせてくれます。
これは映画の原作であるスザンナ・ケイセンの自伝小説「思春期病棟の少女たち」の雰囲気に影響されているようで、原作も暗くなりそうな話を軽妙なタッチでさらりと描写しています。
エンドタイトルでも流れる挿入歌の「恋のダウンタウン」は、今でも聞くと元気を貰える気がします。

 原題は原作も映画も"Girl, Interrupted"。
(しかし主人公は18歳のはずなのに何故「17歳のカルテ」なんだろう?)
この原題はフェルメールの絵画「演奏を中断された少女」から採られていて、人生の大切で楽しい時期を中断、隔離されてしまった著者のとまどい、無念さを簡潔に表しています。
著者がこの体験を冷静に振り返られるようになるには、
それなりに年月が必要だったそうで、本にしたのは40代になってからでした。

主演のウィノナ・ライダーはこの原作が好きでプロデュースもしています。
彼女自身、若い頃精神的に不安定になって一時入院した体験を告白していて、
彼女が時々見せる不安で脆そうな表情はそんな繊細なところからきているのでしょうか。
ウィノナにとってスザンナはぴったりな役柄ですが、
それ以上にはまり役だったのが、リサを演じたアンジェリーナ・ジョリーでした。
当時彼女はほとんど新人でしたが、今にして思うと反抗的で野性児のようなリサは、彼女にとって十八番のような役でした。
この演技でアンジェリーナ・ジョリーはアカデミー賞助演女優賞を獲得しました。
                      (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2010-10-13 23:29 | 人間ドラマ | Comments(0)

SCREEN113 アイガー北壁

極限状況でのクライマーの執念と無念を見せるサスペンス佳作 公式サイト

 アイガー北壁と言うと思い浮かぶ映画が、
クリント・イーストウッドが主演・監督した「アイガー・サンクション」。
その「アイガー・サンクション」でも描かれているように、
アイガー北壁というのはちょっと変わった山です。
ヨーロッパ・アルプスの最難所と言われながら、観光のアクセスもよいのです。
アイガー北壁内にはユングフラウ鉄道のトンネルが通っており、
中腹のアイガーヴァント駅からは、一般観光客でも北壁からの眺望を楽しめます。
 また、山麓にはアイガー北壁全体を一望できるリゾートホテルがあって、
天気が良ければ、望遠鏡で北壁を登るクライマーを逐一観察できるのです。
「アイガー北壁」劇中のセリフにあったように、まさに”垂直の闘技場”。
 そんな環境がまだ北壁が未登攀だった時代に既に整っていたのを
この映画で知って ちょっと驚きました。

 「アイガー北壁」はヨーロッパ・アルプス最大の難ルート、
アイガー北壁の初登攀を目指す登山家達に起こった悲劇の実話を元にした物語です。
この事件はヨーロッパ・アルプスの登山者なら誰でも聞いたことのある有名な逸話だそうで、映画を観れば、確かにその劇的な物語が今だに語り継がれるだけあることが分かります。
「アイガー北壁」は山岳映画というジャンルにとどまらず、
登山を知らない人でも十分見ごたえのあるサスペンス映画の佳作にもなっています。

 1936年、ナチス・ドイツが勢力を拡大していた時代。
ナチスはヨーロッパ・アルプス最後の難ルート、アイガー北壁を初登攀した者に
ベルリン五輪(レニ・リーフェンシュタールがオリンピック映画の名作と言われる
「民族の祭典」「美の祭典」を撮った大会)で金メダルを授与することを決定、
この年、多くの登山隊がアイガー北壁に集まります。
ドイツ人トニー・クルツとアンディ・ヒンターシュトイサー組もその一つでした。
 彼らはドイツ代表のように注目されますが、
意外だったのは、彼らは誰の援助も受けていないことです。
彼らはハーケンを手作りし、少ない自己資金で登山するため、
交通費を節約して、アイガーまでの道のり600kmを自転車でやってきます。

 なぜ、「実話の映画化」でなく「実話を元にした映画」なのかというと、
映画の骨子に大きなフィクションが加えられているから。
どこがフィクションかは後述するとして、
事件の概要には、史実として伝わっているものに忠実で、
出来る限り再現しているようです。
ただどうしても事件の細部に不明な部分があり、推測で構成されたものがあって、
映画の中心部分にフィクションを入れたのは、どうせ虚構が避けられないなら、
いっそ映画向きにフィクションを加えて面白くしようということでしょうか。

 それにしても、死地に立ったクライマーの見せる生命力、
生還への執念は驚かされます。
 同じく実話を映画化した「運命を分けたザイル」や、
沢木耕太郎のノンフィクション「凍」もそうでしたが、
もう体力、気力を使い果たしたと思われてもなお、
彼らが死力を尽くす姿は心揺すぶられました。(☆☆☆)

*史実とフィクションに関すること(ネタバレ注意!)
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by am-bivalence | 2010-07-27 23:37 | 人間ドラマ | Comments(0)
 前半、親子の愛情あふれる触れ合いが微笑ましく、痛ましい 公式サイト

 2005年に自殺したフランスの映画プロデューサー、アンベール・バルザンをモデルに、
父親と娘たちとの交流、残された家族の立ち直る姿を描いた作品。
 映画の前半はプロデューサーの仕事に忙殺されながらも、
家族との時間を大切にしている父親グレゴワールを中心に展開します。
下の娘2人が「劇」として見せるニュースキャスターごっこを家族みんなで楽しんだり、
旅行先で訪れた教会の天井画を娘達にやさしく説明したり、
何気ない親子の触れ合いが愛情込めて描かれていて微笑ましく、
後半の展開を知っているだけにちょっと痛ましい気持ちになります。
 こういった描写があるから後半が生きてくるんですが。

 苦しい財政事情をなんとかやりくりして自転車操業していた映画プロダクションが、
金銭感覚に疎い映画監督が小切手を現金化してしまったことをきっかけに、
資金繰りが急速に悪化します。
スタッフとも険悪な雰囲気になったりし孤立していったグレゴワールは、
ついに自ら命を絶ちます。
 このあたり、ちょっと唐突で違和感を感じました。
自ら死を選ぶ人というのは、もっと前から「死」という選択肢のカードを胸の奥に隠し持っていて、いつ切ろうか逡巡しているような気がするからです。人には決して明かさずに。
もっとも、資金繰りが悪化するずっと前に冗談めかして
「資金難になったら自殺でもするか」というシーンはありましたけど。
 モデルになったアンベール・バルザン氏は普段は話し好きで社交的でしたが、
亡くなる5カ月ほど前から鬱を患っていたそうです。

 残された妻シルヴィアと3人の娘は嘆き悲しみますが、
プロダクションには何百万ユーロの負債と未完成の映画が残されていました。
悲しむ間もなくシルヴィアは借金を何とかして着手中の映画を完成させようと奔走します。
それがグレゴワールの遺志だと信じての行動です。
 気丈にもシルヴィアは残された遺族が一度は口にするであろう疑問を言いません。
それを率直に問うのが子供たちです。
「なぜ?」「どうして私達を残して?」

 お父さんは私達のこと思ってくれてなかったの?と言う幼い子に、
グレゴワールの友人はこう答えます。
「いつも君たちのことを考えていたよ。でも一瞬忘れてしまったんだ。」
ごまかさない率直な物言いは、彼女たちが事実をゆっくり受け入れていくしかないと思ってのことでしょうか。

 年長の長女は事情が分かるだけにもっと複雑で、
ふとしたことから父に隠し子がいた事を知りショックを受けます。
その事で父をなじる長女に対し、母は
「お父さんとの楽しかった日々を思い出して。父親の愛の深さを忘れないで。」
と毅然と言います。
 う~ん、確かにいい父親ではありましたが、
済んだ事とは言え浮気していた夫をそう擁護できるなんて、
父よりも母の愛の深さ、度量の大きさを感じてしまいます。
続けて母は
「死は人生の否定ではない。死は人生の数ある出来事のひとつ。」
とも言うのです。
 考えさせられる言葉ですが、この強さはどこから来るんでしょう。
気が強いと噂に聞くパリジェンヌの持つ強さなのか、
まだ20代の女性監督の理想像なのか。。。
                    (☆☆
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by am-bivalence | 2010-07-07 00:07 | 人間ドラマ | Comments(0)

screen110 ブタがいた教室

 食べることは他の命を犠牲にすること~その食育は大切だが、
愛情かけた動物を殺してはいけない
  公式サイト

 自分達が育てたブタを自分達で食べる、
新任小学校教師が担任学級で実施した実話を元にしたこの映画は、
投げかける食育と命の問題が、公開当時話題になりました。
この問題には私なりに答えがあったので、あえて観る気が起きなかったのですが、
自宅から歩いて10分の映画館で限定上映されたので、この機会に観てみました。

 劇中の子供たちのディスカッションには様々な意見があって、
それなりに考えさせられましたが、
映画を観終わっても、やはりこの問題に対する私の考えは変わりませんでした。
 食べることは他の命を犠牲にすることでもあるという"食育"は必要ですが、
愛情かけた愛玩動物を殺させてはいけないと思います。

 原作の教師は鳥山敏子氏の「鳥山実践」と呼ばれる食育に影響されて、
学級でブタを飼うことを思いついたそうです。
「鳥山実践」は生きたニワトリを生徒の手で殺させ調理して食べることで、
食糧や命の価値を考えさせるものです。
 人間含め動物は、生きていくために他の生き物を食べていかなければなりません。
他の命を犠牲にして、自分が生き長らえる、
これは真理であって、生き物である我々の原罪とも言えます。
現代社会はあまりにも食物を得る行為が簡単なため、
他の命を犠牲にして生きていることに無自覚になりがちです。
その意味で私は、実際に生き物を殺して調理し、
食べると言う行為がどういうことか自覚する、「鳥山実践」には賛成です。

 ただこの映画の教師は、食べるためにブタを飼うことを子供達に提案、実践しますが、
子供達はブタに名前をつけ、ペット感覚で飼育し始めます。
教師はそれを止められませんでした。
そこが間違いです。
名前をつけてはいけなかったのです。
教師は指導する立場にあるのだから、食育を始めるとき、
食糧とペットの違いをはっきりさせておくべきでした。
その場で一緒に悩んでどうするのでしょう。

 ペットとして飼った生き物に飼い主は愛情を注ぎます。
それは子供を育てるような愛情と変わりません。
そうして育てたものを殺すことができるでしょうか。
できない人間が普通です。
それを平然とできるような人間のほうが問題だと思います。
愛したものを殺さなければならない、
そんな二律背反した状況に人格形成途中の子供を置くのは、
当初の食育の意図とは別次元の問題であり、違うと思います。
私はそのような状態を受け入れさせるのは"歪んだ愛情"を生むような気がするのです。
例えば好きな人をいじめてしまうような、そんな歪んだ感情を。

 映画の中で子供達から、Pちゃんと、他の食肉用ブタと、
命に違いがあるのかという問いが出てきますが、
Pちゃんと、他の食肉用ブタははっきり違うのです。
愛情かけて育てた者の心には。

 最後には子供たちの議論が食べる食べないの問題から、
Pちゃんの面倒を最後までみないのかという責任論に
転化してしまっているのも気になります。

 ただ映画はこういった批判も承知で作られているようです。
冒頭、教師がこの計画を校長に説明する際の様子は、
軽い気持ちで始めているのが見て取れますし、
子供たちがブタに名前をつけるのに教師は躊躇し、
名前をつけることを聞いた教頭に批判させています。
 とすると、それを承知で出演した子供たちに同じ体験をさせた監督は、
ある意味罪深いことをしたものですが、
食と命の問題を改めて考えるには良いきっかけとなる映画ではあります。
                               (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2009-04-16 23:20 | 人間ドラマ | Comments(0)
 ニクソン役フランク・ランジェラの好々爺としたタヌキぶりがすごいが、
これはニクソンの実像なのか
  公式サイト

 ウォーターゲート事件で失脚した後、
政界復帰をも狙って初めて単独インタビューに応じたニクソンと、
自分の資産も投じてこのインタビューに賭けたというフロストの
真剣勝負の舌戦が呼び物であるこの映画、
確かにインタビューやその前の出演交渉などの駆け引きは面白いです。
 脚本がうまく出来ていて、個々の駆け引きの勘所を
各陣営内での会話や、関係者の回顧インタビューと言う形で
解説しながら見せてくれるので分かりやすく、引き込まれていきます。

 すごいのはフランク・ランジェラが演じるニクソンのタヌキぶり。
好々爺としながら、議論の矛先を巧みにかわし、自分の功績をアピールする話術は
かえってニクソンという人物を見直し、好感?さえ持ってしまいます。
(ニクソン側に肩入れしがちなのは、フロストを演じているマイケル・シーンの眉毛が
ジャック・ニコルソンのようで好きになれなかったこともあります(笑))

 でもここで描かれているニクソンは、本当にニクソンの実像なんでしょうか。
私のイメージするニクソンはもっと生真面目で、
人好きされない人物のような気がするのですが。。。
(会ったことがないので、分かりませんけど(笑))

 この脚本を書いたのは「ブーリン家の姉妹」、「クィーン」、
「ラスト・キング・オブ・スコットランド」の脚本家ピーター・モーガン。
 「ブーリン家の姉妹」では史実と違っているところも多々あったとか。
「ラスト・キング・オブ・スコットランド」では主人公は(モデルはいたらしいですが)
架空の人物でした。
 「フロスト×ニクソン」も、プログラムにある映画評論家町山智浩氏の解説によると
事実関係が異なるところが幾つかあるようです。
 特に、クライマックスとなるインタビュー後半部の裏事情は
ニクソン側関係者の証言が映画と全く異なっていて、
このドラマの根幹に関わる部分が変えられているのです。

 どうもこの脚本家は、史実を忠実に描いて、
史実にないところを作家の想像力で膨らませるようなアプローチはせず、
実話から自分が面白いと思ったドラマイメージを拡大解釈し、
そのために事実と異なる脚色もかまわないと考えているようです。
「チェ1,2」のソダーバーグとは対極の作り方です。
 まあ、映画制作法としてはピーター・モーガン的方法がほとんどで、
「チェ1,2」のような映画のほうが珍しいんですが。。。

 とうわけで、そういった事情を踏まえた上で楽しむならば、
とても興味深い人物像を描いてみせるドラマでした。
                            (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2009-04-09 23:10 | 人間ドラマ | Comments(0)
 ただのホラ話と侮れないテーマを含む?  公式サイト

 fish storyとは、ホラ話のことだそうです。
ではこの映画のどこがホラ話かというと、
全く売れなかったパンクバンドの曲が37年後、地球を救っちゃうってこと。
音楽でどうやって地球を救うんだ?って思いながら観ていましたが、
確かにパンクの曲が世界を救っていました(笑)。

 「フィッシュストーリー」は「アヒルと鴨のコインロッカー」の組み合わせ、
原作・伊坂幸太郎、監督・中村義洋の第二弾。
「アヒルと鴨…」や「チーム・バチスタ…」と同様、
中村監督らしいコメディタッチの映画ですが、
「アヒルと鴨…」のような感動はあまり期待しないほうがいいです。
この映画はホラ話を成立させるため、説明に物語の大半を費やしているからです。
だから全体的にはアイディア勝負の単館系小作品といった印象になっています。
 でも、それはそれで楽しいですし、時代をまたがって語られる複数のエピソードが
最後にパンクバンドの演奏をバックにぴたり繋がっていく構成は
それなりにカタルシスがありました。

 この映画は言ってみれば、使い古された"ことわざ"一言で表せてしまいます。
それを言ってしまうと、なあんだと思われてしまうかもしれませんが、
単にそれだけではない深いものを含んでいるような気がします。
その辺りは、"以下ネタバレ"の後で。。。
                           (☆☆☆)

 <以下、ネタバレ>
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by am-bivalence | 2009-04-02 23:50 | コメディ | Comments(0)