劇場で観た映画の覚え書き


by am-bivalence
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

タグ:人間ドラマ ( 50 ) タグの人気記事

screen106 チェンジリング

 予想を上回る展開と、静かに胸を打つエンディングの佳作 公式サイト

 先日、村上春樹氏がエルサレム賞授賞式で行ったスピーチが話題になりました。
壁と卵の比喩、壁(システム)にぶつかって壊れる卵があれば
卵の立場に立ちたいという比喩を使ったスピーチです。
 この映画も言ってみれば、壁にぶつかってしまった卵の話です。

 「パーフェクト・ワールド」、「ミスティック・リバー」、
「ミリオンダラー・ベイビー」、硫黄島2部作と、これまでイーストウッド作品は
重くて、ある意味救いがなく、観るのにそれなりの"覚悟"がいるものばかりでした。
でも今回の「チェンジリング」はちょっと違いました。
最後に希望があるのです。それを信じる者に生きる力を与える希望が。
たとえそれが幻のような不確かで儚いものだとしても。

 プロットがよくできていて、本当にこれが実話?と思ってしまうほどです。
途中ホラーチックな演出もありますが、全編を通じて行方不明の息子がどうなったのか
を追うサスペンスになっています。
こんな結末なんだろうという予想を超えて展開し続いていく話は
144分の長さを感じさせませんでした。

 changelingとは"入れ替わり"とかいった意味かと思っていたら、
神隠しにあった子供とすり替わって現れる子供のことだそうで、
一般的な辞書にも載っています。
まさにこの事件そのもので、よくこんな単語があったなあ、と感心します。

 行方不明になった息子を取り戻したい一心で行動する母親というと、
ハリウッド映画なら「フライトプラン」のジョディー・フォスターのような
逞しいアメリカ女性が出てくるのだろうと思っていましたが、
「チェンジリング」の母親は警察の詭弁や嘘にも反論できないおとなしい女性です。
それが後半に変わっていくのも見所。
 本作のアンジェリーナ・ジョリーはこれまでの地でやっていたような
自信たっぷりの女性とは全く違って、気弱な感じの母親を好演しています。
この役でジョリーは今年のアカデミー主演女優賞にノミネートされていました。
                                (☆☆☆
[PR]
by am-bivalence | 2009-03-13 23:23 | サスペンス・スリラー | Comments(0)
 ミュージカル「コーラスライン」を楽しむための最良のサブテキスト  公式サイト

'06年「コーラスライン」再演のために行われた
8ヶ月に及ぶ公募オーディションの模様を追ったドキュメンタリー。
オーディションの様子と平行して、「コーラスライン」がどうやって創られたかや、
公開時の模様や出演者インタビュー、反響などが挿入されます。

 「コーラスライン」はダンサー達に一晩かけて行った12時間に及ぶインタビュー
(というより、ディスカッション?)を元に作られたそうで、
劇中のダンサーはそれぞれモデルがいるということを、この映画で知りました。
初演時にはモデルとなったダンサーをほぼそのままキャスティングしていたそうです。
映画では12時間のインタビューテープの一部音声が聞けます。

 「コーラスライン」自体、ダンサーのオーディションを舞台にした群像ドラマなので、
これはいわば”現実の「コーラスライン」”。
劇中劇との奇妙な入れ子構造が面白い構成になっています。
 観ていると、予選の間は受験者に合格したいというギラギラした雰囲気はなく、
”「コーラスライン」のオーディションというイベント”に
参加できることを楽しんでいるようです。
受かればラッキー、ダメならすぐ次、
やれるだけのことをやってテストを楽しもうというスタンス。
そうでなければ、成功するのはほんの一握りの人だけという
ショービジネスの世界ではやって行けないんでしょう。
 受験者中、沖縄出身の日本人でコニー役を射止めた高良結香にも注目です。
英語の発音を問題にされ、物怖じせず何度も"Ten"を繰り返す彼女に、
単身アメリカで奮闘するために必要なタフさを見せられたようでした。

 候補者が絞り込まれるにつれ、次第に受験者は真剣味を帯びてきます。
キャスティング側も最終選考では悪かった点を指摘してもう一度トライさせています。
そんな姿勢はショービジネスの厳しさというよりも、
最高のものを創りたいという制作側の思いを感じさせてくれました。

 これを観ると「コーラスライン」を観直したくなること、間違い無しです。
というより、私は帰ってから映画「コーラスライン」をレンタルちゃいました。
このストーリーにはあんな背景があったんだとか、
このダンサーのモデルがあの人だったのかとか、
以前観た時よりも何倍も楽しめました。
                   (☆☆☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2009-02-25 00:07 | ドキュメンタリー | Comments(0)
 事実の再現のみで構成しようとしたゲバラの失敗  公式サイト

 原題は「CHE PART TWO」と、いたってシンプル。
妙に凝った長い邦題を付けられると、窓口で券を買うとき言いづらくて困ります(笑)。

 それはともかく、この映画、前編に引き続き、
ゲバラのことをよく知らない者にとって、やっぱり分かりづらいです。
ボリビアでのゲバラの悲劇的最後を描いているのですが、
記録として残っているゲバラの行動を極力忠実に再現しようとしているようで、
このとっつき難さは、歴史を学ぶのに直接文献にあたっているようです。
それでもゲバラのボリビアでの苦難と失敗は伝わってきました。

 共闘するはずだったボリビア共産党が協力を止めたことで
ゲバラの革命はのっけから躓きます。
 ゲバラはキューバ革命と同じように、農村部にゲリラの拠点を築き、
勢力を拡大していこうとしますが、
肝心の農民は政府側の情報操作でゲリラを恐れ、協力しません。
次第に追い詰められていくゲバラ達。

 ゲバラは厳格な人だったそうです。
前編のラストでは、革命成ってハバナに向かう途中で
浮かれてオープンカーを乗り回す兵を叱責するエピソードがありました。
 そんなゲバラの姿に私は「ワイルド・スワン」に描かれた
著者ユン・チアンの父親を思い出しました。
ユン・チアンの父は中国共産党の初期からの筋金入りの党員で、
共産主義に根ざした理想家でした。
権力を持つと親族で利権を抱え込むのが当たり前だった中国で、
彼は一切、親族をえこひいきするような事をしませんでした。
党幹部だから送迎車が使えるといった、
特別待遇を与えられるのを嫌っていました。
その厳格さゆえに身内からは恨まれるところもありましたが。。。
 搾取のない、真に公平で平等な社会を作る、
ゲバラもそんな理想主義を抱いて行動した人だったようです。
高い理想を革命というラジカルな手法で実現しようとしたゲバラが、
悲劇的最後を遂げるのは必然だったのかもしれませんが、
その理念がとても高潔なものだっただけに、より悲劇的に見えるのでしょう。
                                 (☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2009-02-24 22:27 | 伝記 | Comments(0)
 後編のための長~い前説?  公式サイト

 原題は「CHE PART ONE」と、いたってシンプル。
"チェ"・ゲバラ、ある世代には熱狂的信奉者がいて、時代のイコンである人物ですが、
私はゲバラのことをあまりよく知りません。
高校の頃、彼の自伝を読んだことはありますが、
キューバ革命や彼の思想、人物像がもう一つよく分からなかった覚えがあります(^_^;)。

 この映画の事を聞いたとき、幾つか腑に落ちない点がありました。
 なぜ今頃、ソダーバーグが取り上げたのか。
革命家ゲバラを信奉する人はラジカルでアナーキーなイメージがあるので、
ソダーバーグが興味を持つのはちょっと意外な感じがしたのです。
ソダーバーグはゲバラの何処に惹かれ、何を描きたかったのでしょう。
 なぜ、ゲバラ役にスペイン語を話すという以外、
共通点の無さそうなベニチオ・デル・トロを起用したのか。
(ゲバラに容姿が似ているという点では、まだ「モーターサイクル・ダイアリー」の
ガエル・ガルシア・ベルナルのほうがよかったと思います。)
 なにより、ゲバラはどんな人物だったのかにも興味がありました。

 で、実際映画を観てみたんですが、
これが映画を観ても、事前の疑問はほとんど解けません。
 この映画、革命の勝利、戦場での恋などドラマティックな要素には事欠かないのに、
ドラマ的演出はしません。
革命後、国連演説のためニューヨークに滞在したゲバラをカットバックしながら、
キューバ革命時のゲバラの行動を淡々と見せるドキュメンタリーのような映画です。
キューバ革命が全体としてどう進み、どうやって成功したのか、
説明的描写はほとんどありません。
昔読んだゲバラの自伝のようです(笑)。

 でも観賞前の疑問は、プログラムの監督インタビューを読んであっさり解けました。
しかも、知ってしまうとなぁんだって事ばかり。
 ゲバラの企画を持ち込んだのは、デル・トロだったこと。
(全然似ていないのにゲバラ役にしたわけです(笑))。
ソダーバーグ自身はそれまでほとんどゲバラを知らなかったこと。
ソダーバーグが惹かれたのはゲバラの人間性、特にボリビアでの活動で、
それを描く補足として、キューバ革命でのゲバラを追加したこと。
映画のエピソードは全て事実に基づき、可能な限り忠実に再現しようとしたこと。

 どうもソダーバーグはゲバラのキューバでの成功よりも、ボリビアでの失敗に、
革命家としての思想や信念よりも、成功を投げ打っても次の革命へ乗り出した
ゲバラの人間性に興味があったようです。
 結局、この映画の本質は後編にこそあるわけで、
パート・ツーを観てみなければこの映画の評価はできません。
後編に期待しましょう。
      (☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2009-01-23 21:22 | 伝記 | Comments(0)
 青年の崇高な夢とその挫折を描いた、不朽の名作  公式サイト

 映画ファンなら誰でも、"生涯ベストワン映画"というものがあるのではないでしょうか。
"生涯"はちょっと大げさかもしれませんが、今まで観てきた中で
一番よかったと思う映画。。。私もあります。
 それがこの「アラビアのロレンス」です。

 映画「アラビアのロレンス」は、
T.E.ロレンスという実在の人物を描いた伝記映画であり、
砂漠の民を率いて戦った英雄物語であり、
第一次大戦での砂漠の戦闘を描いた戦争スペクタクル映画でもあります。
でも私は「アラビアのロレンス」は、"青春映画"だと思っています。
一人の青年が抱いた理想と夢、そしてその挫折を描いた青春映画だと。
(挫折する映画が好きだとは、我ながら屈折しているかとも思いますが(苦笑)。)

 ロレンスの描いた夢は、アラブ民族に自由と融和をもたらすことでした。
十字軍に傾倒し、若い頃から考古学調査で中東を巡り、
厳しくも美しい砂漠とそこに住む民に親しみを感じたロレンスは、
当時、大国に支配されていたアラブを独立させることに注力します。

厳しい自然の中で生きるベドウィンは、
砂漠で置き去りになった者は仕方なく見殺しにするしかなく、
部族間の争いも絶えず、殺人も厭いません。
 ロレンスはそんな現実に果敢に抗って、
砂漠に取り残された仲間を救出に行き、
部族抗争を抑えるために自ら手を下すことまでします。
潔癖なロレンスは、第一次大戦下の軍属でありながら流血を嫌っていたのですが。。。
 慕ってついてきた少年達を力及ばず砂漠で失った時には
少年のように心を痛めるロレンス。
(ただし、彼の反応は彼の別面も含めてであるのが後に分かってきます)
そんな人間像は「風の谷のナウシカ」のナウシカを見るようです。
(と言うより、ナウシカにロレンス像の影響が見えると思うのですが)

 ただこの映画のすごいところは、そこにとどまらず、
人間ロレンスを高潔な君子のままで終わらせなかったことです。
アカバ攻略までなら普通の英雄物語だったのですが、
映画は更にロレンスの複雑な内面に踏み込み、
そこからある種、普遍的な人間像も浮き出してみせるのです。

 例えば、映画最初でロレンスはベドウィンの案内人とこんな会話をします。
イギリスは肥えた土地に肥えた人々が住む国だと言うロレンスに対し、
ベドウィンが、でもあなたは太っていないと言うと、ロレンスはこう答えます。
 "No, I'm different.(そう、僕は違う)"
 何気ない会話ですが、
これはロレンスがちょっと変わり者である自分を自嘲しているとともに、
自分が人とは違う何者かなんだという、若者らしい気負いを
端的に表したセリフではないでしょうか。

(以降、ネタバレを意識せずに書いています。気にされる人は飛ばして下さい。)

 また映画冒頭ロレンスがやって見せる、火の着いたマッチ棒を持ち続けるという特技は、
私はロレンスの"精神は肉体の限界を超えられる"という信念を
表しているんじゃないかと思います。
これは映画後半で「水の上でも歩いてみせる」といった、
彼の超人願望とでも言うべき言動、行動に繋がっていきます。
それは異常さを通り越して、滑稽でさえあります。
 デラアでの事件で自分も普通の人間であると思い知らされた時、
その願望の反動が、彼が壊れていくきっかけにもなるのです。

 映画は更に彼の心の奥に潜んだ闇にも触れています。
部族間の争いを招いた部下を自ら処刑したことを、
後に彼はカイロで「処刑を楽しんでいた」と告白しているのです。
自分の奥底にある暴力性に戸惑うロレンス。
私にはそれは、彼固有の異常性ではなく、彼のイノセントさからくる、
自分にも本能的な暴力の衝動があったことへの恐れと思えるのです。
 高潔さと奥底にあるダークさ、自意識過剰、自己陶酔、
才気を自覚するがゆえの高慢さと、自身の全能感から起こす無謀な行動、
T.E.ロレンスという稀有で極端な人物像から、
一つの典型的な人間心理が浮かび上がってきます。

 ロレンスの挫折は内面的なものに加え、
社会の現実によって更に助長されていきます。
いつの間にか国家間の駆け引きに巻き込まれ、利用されるロレンス。
(このときのイギリスの二枚舌外交が後々の中東紛争につながっていく)
イギリスを差し置いてダマスカスに入城しても、
部族間のエゴを前にして、疲弊するロレンス。
 最後の戦闘では、「清潔だから」好きだった砂漠を血で穢し、
お気に入りの白い民族衣装を血まみれにするロレンスが痛ましいです。
 理想と現実の大きな壁(老獪な社会の壁)に挫折していく姿に、
年配の人なら60年代の学生運動を重ねたりするのではないでしょうか。

 「アラビアのロレンス」については、まだ語り尽くせませんが、
「アラビアのロレンス」は観るたびに別の見方ができて、新しい発見があります。
それはちょうど、優れた文学が読む年齢によって解釈が変わってくるように、
「アラビアのロレンス」も観る年齢によって見方が違ってくるようです。
名作です。
         (☆☆☆☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2008-12-25 23:57 | 人間ドラマ | Comments(0)

screen96 ブラインドネス

 人間はそこまで醜くないと信じたいが。。。  公式サイト

 日本人俳優二人の出演でも注目された「ブラインドネス」、
宣伝文句で"心理パニックサスペンス"と謳ってしまったので、
世界的に広がった新種の伝染病が引き起こすパニック映画と誤解してしまう人が多いようです。
 この映画では、人々が失明してしまう伝染病の正体は最後まで分かりませんし、
主人公がなぜ、ただ一人失明せずにいられるのかも全く説明されません。
 結局これは、極限状態で現れる人間の本性を見せる寓話なのですが、
ここで描かれる人間性がとても浅ましく、観ていて息詰まってしまうのです。

 隔離された失明者は人数の少ないうちはまだ秩序を保っていられましたが、
人が増えて収容所内の衛生状態が最悪になり、スラムのようになってしまったとき、
銃を手にして王を名乗る男が全てを支配しようとします。
 男が最初、盲人には全く価値の無い貴金属を徴収するのには笑ってしまいますが、
次に女性を要求しだした時の男達の反応は、なんともやり切れません。
貧困に窮してしまうと、そういう人間性も現れるのかもしれませんが。。。

 「シティ・オブ・ゴッド」で人殺しをなんとも思わないスラム・ギャングを描き、
「ナイロビの蜂」でアフリカの貧困を目の当たりにしたメイレレス監督には、
そのような人間性が身に染みてリアルと感じるのでしょう。
 でも人間は、もう少し賢明だという気がするのです。
無秩序状態からお互い納得できる秩序を作り出し、
尊厳のために命を賭けても抵抗するといった、理性的で高潔な部分です。
 ただアメリカのような先進国でさえ、
テロとの戦いと称して、石油利権を求めてイラクを侵攻したように、
私利のために力を行使していることを考えると、
人間の理性を信じようとするのも、空しくなることがあるのですが。。。

 ラストは主人公一人が不安を抱えながらも、希望が見える終わり方ですが、
重苦しい思いばかり残ってしまった映画でした。
                     (☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2008-12-05 23:59 | 人間ドラマ | Comments(0)
 「藪の中」にこんな解釈があったのか  公式サイト

月に一度の映画の日、何か面白い映画はないかと探していたら、
新宿で「羅生門 デジタル完全版」を限定公開しているのが目に止まりました。

 「羅生門」は言わずと知れた黒澤明の古典的名作です。
大映の資産を買い取った角川映画が、原版の劣化がひどかった「羅生門」を
各種機関と提携して 複数の上映プリント等から完全デジタル修復したので、
それを限定公開した、というわけです。
 どんな修復だったのかは、2月に発売されるブルーレイの宣伝サイト
一端を見てもらうとして、
「羅生門」のオリジナルネガは諸般の事情で廃棄され現存せず、
上映プリントも残っているものが意外に少なかったそうで、
修復はかなり苦労したようです。

 実際に観てみると、像、音声とも鮮明で、古さを全く感じさせませんでした。
随分前ですが、「七人の侍」のリバイバル上映を観た時は
音声が一部かなり不鮮明だったことを思うと、格段の差です。
 ただ完全版といっても、カットされたシーンが追加されているわけではないそうです。

 「羅生門」は恥ずかしながら、私はちゃんと観たことがありませんでした。
何十年も前に、テレビ放送していたのを断片的に観た覚えがあるのですが、
当時は芥川龍之介の原作も読んでいなかったので、
不条理な映画としか印象にありませんでした。

 芥川の原作「藪の中」自体、食い違う証言に、
人間行動の真相とは不可知なものだというのがテーマと言われていたので、
そんな映画だったと決め付けていたのですが、
今回改めて観て、ぜんぜん違う映画だったことを知りました。
 映画「羅生門」で黒澤監督らは、芥川の原作の裏に隠された真相を推理し、
それを映画化していました。

 原作では、強盗、暴行を働いた多襄丸の証言、
暴行された女の証言、暴行された女の夫で死んだ侍の霊の証言があり、
どれも人殺しをしたのは自分であると主張して、
誰が犯人か分からぬまま終わっています。
 「羅生門」では、ここまでは原作をほぼ忠実に描き、
この後、第四の証言者として、きこりを登場させます。
第三者の目撃として、実際はこんなことが起こったのだというのを
提示して見せるのです。

 これはおそらく、当事者3人の証言が、
盗人は盗人らしくすごんで見せ、女は貞淑さを装い、
侍は自身の不甲斐なさを嘆いてみせるといった、
それぞれ自分を演出していることに気付いたからではないでしょうか。
 黒澤監督らは「藪の中」に、事実の不可知ではなく、
自分を正当化するためには、意識するしないに関係なく、
都合よく事実を湾曲してしまう人間の業を見たのでしょう。

 ただ、きこりも最後で暴露されるように、
完全に第三者というわけではありません。
彼の証言も何らかのバイアスが掛かっている、ということで
真相はやはり分からないという含みを残したのでしょうか。

 ラストはきこりが捨て子を引き取っていくことで、一抹の救いを見せて終わります。
しかし、ここで私が引っかかったのが、タイトルの「羅生門」。
同名の芥川の名作短編「羅生門」は、
羅生門の上での男と老婆のやり取りから、
ころころ変る人間心理を描いたものなのです。
 罪を悔いて子供を引き取ったきこりの決心が
いつまでも変らないのだろうかと疑問を呈しているようにも。。。
と考えるのは、うがち過ぎですかね。
               (☆☆☆☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2008-12-03 21:37 | 時代劇 | Comments(0)
いかにもありそうな家族の形に、自身を投影してしまう小品  公式サイト

 「人生は、いつもちょっとだけ間にあわない」
まずこのコピーに、グッときました(笑)。

 兄の命日に集まった家族の2日間を淡々と描いたこの映画、
ドラマチックな展開があるわけでもなく、ごく日常的風景を追っているんですが、
会話の面白さもあって、2時間飽きさせませんでした。
 派手なアクションがあっても途中で眠くなるような映画があるなか、
これはちょっとすごいことかも知れません。

 出演者が樹木希林、原田芳雄、阿部寛、YOUと、個性の強い役者ぞろいで、
劇中の人物を見るというより、
演じている樹木希林、YOUを見ているように思えてしまうんですが、
とてもありがちな家族関係には、つい自分の家族を重ね合わせて観てしまいます。

 誰もが胸に何かしら隠しているのですが、
たまに本音を吐露しても、誰も聞いていなかったり、
途中で遮られたりして中途半端に終わってしまう可笑しさ、哀しさ。
このすれ違いが妙にリアリティーを感じさせます。

 この家族に影を落としているのが、事故で亡くなった兄。
できの良かった兄といつも比較されて鬱屈した弟、
そのせいもあって反発し合う父子。
普段は闊達で普通に振舞っている母も、
実は心の奥底で息子を亡くした喪失感を一番重く抱えていることが
次第に明らかになってきます。
残酷なことを笑みを浮かべながら冷静に語る母親がちょっと恐ろしく、
心の闇の深さを感じさせます。
 既にないもの、過ぎ去ったものに縛られているのは、
人間、案外多いんじゃないでしょうか。
それを"家族の歴史"、"人の歴史"というのでしょうけど。

 過去の延長上に生きているのは、この親子だけではありません。
弟の結婚した相手は子持ちの再婚者で、亡くなった前夫との息子の間には
前夫を含めた関係がまだ息づいているのです。
この関係の中にいずれ現夫である弟が溶け込んでくるであろうことが語られます。
 そうか、家族って"あるもの"じゃなくて、
"築いていくもの"だったんだと、改めて気付かされました。

わっと感動したり、ジーンと胸が熱くなって涙するような映画ではないんですが、
後からじわじわと効いてくる、ボディブローのような映画でした。
                            (☆☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2008-11-23 00:24 | 人間ドラマ | Comments(0)

screen89 おくりびと

 抑え目の演出が好感持てる良品  公式サイト

 今は自動車道ができて無くなってしまいましたが、
昔、母の実家には、裏の畑に先祖代々の墓地があって、
盆の法事などは、裏の畑まで親族一同が歩いていって焼香していました。
居間には仏壇がって、鴨居には亡くなった祖父、祖母の遺影が飾ってありました。
昔の日本には「死」は日常生活と裏腹にあって、溶け込んでいたように思います。

 でも現代の都市はどうでしょうか。
近所に葬斎場の計画が持ち上がると、周辺住民が猛反対したりします。
今の街は 快楽原則で出来ていて、
「死」のように不安・不快を感じさせるものは、慎重に拭い去られ、
極力排除しているように思うのです。

 「おくりびと」では納棺師という職業に就いた主人公が
その職業が原因で蔑まれたり、妻に出て行かれる描写があります。
 "人の不幸を商売にしている"、と思われるからかもしれませんが、
職業への偏見が生まれる一因には、現代の日常が快適優先で出来ていて、
「死」は忌むべきものであり、無意識に避けていることにもあるような気がしてなりません。
「メメント・モリ」って言葉が古代からあるように、誰でもいつかは死んじゃうんですけど。

 納棺師という職業があるとは知りませんでしたが、
映画パンフレットによると、どんな葬儀にでも存在するわけではなく、
地域、宗派によって遺体の扱いはいろいろなようです。
葬儀社によっては納棺の儀式がないような場合もあるとか。

 この映画を観ると 納棺師とは、
死者へ敬意を払い、遺体を辱めずに尊厳を守って、
厳かに親しい人との別れを演出する職業のように思えてきます。
まさに「安らかな旅立ちのお手伝い」。
 実際は主人公の最初の仕事のように、いろいろな遺体を扱うのでしょうから、
かなり泥臭い、大変な仕事なんでしょうけれども。

 映画としての「おくりびと」は、観ていると、
「お葬式」、「マルサの女」といった、かつての伊丹映画や、
「それでも僕はやってない」の周防監督の映画を連想させます。
知られざる仕事にスポットを当て、ハウツー的なものを盛り込んだ点です。
食事のシーンなどは、「ひまわり」での描写を思い出します。

 分かりやすいストーリーで、
伏線からこうなるんじゃないかという期待通りに展開するドラマは、
登場人物たちの感情の変化もほぼ自然な感じで、
すんなり受け入れられました。
 葬式という愁嘆場が舞台になるので、深刻になりがちな部分を
ユーモアで和らげています。
そして、この映画は基本的にハッピーエンドで、完全な悪人が出てきません。
 分りやすいプロットとユーモア、見終わってほっとしたような気持ちになれる、
そんな点が海外でも受け入れられたんじゃないでしょうか。

映画の中で
「生き物は生き物を食って生きている」
という台詞がありました。
 これって、もっと言ってしまえば、
”全ての生き物はいつか食べられるために生きている”
じゃないでしょうか。
 食物連鎖の頂点に立つとされる肉食獣も、
死ねばウジや微生物の餌になって分解され、次の命になります。
人が火葬されても、できた二酸化炭素はいつか植物に取り込まれ、
生命のサイクルに戻ります。
 我々が自分自身と思っている肉体さえも、
いつかは分解され、別のものになっていくのです。
 この世界にいつまでも自分のものというものは一つもなく、
全ては借り物なんです。

そう考えると、いろいろな物を所有しようとするって、
ばかばかしく思えないでしょうか?
                (☆☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2008-11-10 21:33 | 人間ドラマ | Comments(0)
 青年の行動に、今の若者はどこまで共感できるだろうか  公式サイト

 今回は、映画の感想というより原作の話が主になっています。
私的なことも混じり、かなり長文になってしまっているので、
映画情報を期待している方は、飛ばされたほうが賢明です。
 いきなりネタバレしていますし。。。

(以下ネタバレ)
 昨年の5月連休、私は一人、上高地でキャンプして過ごしながら、
一冊の本を読んでいました。
 アラスカの原野で腐乱死体で発見された青年が、どうしてそこにやって来たのか、
そこに来るまで何をしてきたのかを追ったノンフィクションです。

 最初この本を手にしたのは、放浪の果てに荒野でたった一人で野垂れ死ぬという、
異様な状況に興味を引かれてでした。
 私自身、その時一人でキャンプしていたように、
単独で山に登ったり旅行したりといったことをよくするので、
単独行での遭難や、事故には無関心でいられなかったのです。
 本を読んでいくと、青年がアラスカにたどり着くまでの経緯もさることながら、
明かされていく青年=クリスの人物像に
こんな人が実在したのかと驚かされ、惹かれていきました。

 クリスは比較的裕福な家庭で育ち、学業も優秀でした。
彼は誰にも好かれる好青年だったようです。
高校の頃はホームレス支援のボランティアをしたりする、
純粋で正義感の強いところがありました。
自分でこうと決めたら人のいうことを聞かない、頑固な面もあったようです。

 そんなクリスが大学を卒業すると失踪し、放浪の旅を始めたのは、
父親の不義を知ったことが大きく影響していました。
父親には別に妻がいて、彼には異母弟がいたのです。 
それが自分という存在そのものも揺るがしたのでしょうか。

 彼は労働を嫌っていたわけではなく、
人の嫌がる農場の重労働も進んでやっていたそうです。
ただ規則に縛られず、自由に行動するのを好みました。
 放浪の間、社会からはみ出した生き方をしている人々と知り合い、
より自由を求めて自然の中に入り、独学でサバイバル術を身に付けていきます。
そして、"その土地の与えてくれるものだけで生きよう"と
アラスカの荒野へ踏み込んで行くことになるのです。

 冒険、社会の中での生き方、いろいろ考えさせられるノンフィクションでしたが、
巻末の解説にショーン・ペンが映画化を企画しているとあったのを見て、
映画が日本で公開されたら観にいこうと決めていました。
 本のタイトルは「荒野へ」。映画「イントゥ・ザ・ワイルド」の原作です。

 映画に出てくるエピソードは原作にほぼ忠実です。
原作者は単独行をする登山家で、
原作では単独行の冒険でのリスクということの考察もあったのですが、
映画では放浪中に出会う人々との関わりや、
彼を放浪に駆り立てるものに重点が置かれています。

 映画では青年が流浪する理由を、
"真理"の探求とか、物質文明への反発のようにも描いていますが、
実際は家族を欺いていた両親への反発、
誰にも頼りたくないという独立心が根本にあって、
先鋭化していったのだと思います。
 紙幣やカードを燃やして自ら無一文になり、本名を捨てるのも、
物質文明への反発というより、親の資産に頼りたくないという独立心であり、
アラスカの無人の荒野を目指すのも、誰もいない場所で
誰にも頼らず一人で生き抜いてみたいことの現れでしょう。
 クリスの行動に、私は「火垂るの墓」の少年を思い出しました。
「火垂るの墓」の主人公は戦争という非常事態の中、親を亡くしますが、
親戚に頼りたくなくて無謀にも自分たちだけで生きようとし、悲劇の道を辿ります。
クリスの行動がある面青臭く、無謀に見えるのも
似たような稚拙な行動にも思えてしまうからでしょう。

 一方で、自然の中に帰って自然から得られるもので生きるというのは、
「ブラザー・サン シスター・ムーン」の聖フランチェスコも連想させます。
フランチェスコが野の小鳥を見て、彼らのように着飾らず、
自然の恵みだけで生きられたらと願い、出家する姿とも重なるのです。
クリスが一途な冒険者であるとともに、求道的に見えるのも、
そこに思想家のような姿勢があるからなんでしょう。

 ともあれ、クリスが彷徨し、見た風景、場所を
実際にスクリーンで見れたのは嬉しいことでした。
 主演のエミール・ハーシュは、「スピードレーサー」ではパッとしなかったのですが、
この映画では主人公のクリスを魅力的に演じています。

 最後に出会う老人とのエピソードは、原作では後日談があって、
クリスの死を知った老人の想いが胸を締め付けました。
ここは原作でも、最も印象的なエピソードなので、
是非、原作を読んで確かめて欲しいと思います。
                       (☆☆)
[PR]
by am-bivalence | 2008-09-19 23:40 | 人間ドラマ | Comments(2)