劇場で観た映画の覚え書き


by am-bivalence
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screen110 ブタがいた教室

 食べることは他の命を犠牲にすること~その食育は大切だが、
愛情かけた動物を殺してはいけない
  公式サイト

 自分達が育てたブタを自分達で食べる、
新任小学校教師が担任学級で実施した実話を元にしたこの映画は、
投げかける食育と命の問題が、公開当時話題になりました。
この問題には私なりに答えがあったので、あえて観る気が起きなかったのですが、
自宅から歩いて10分の映画館で限定上映されたので、この機会に観てみました。

 劇中の子供たちのディスカッションには様々な意見があって、
それなりに考えさせられましたが、
映画を観終わっても、やはりこの問題に対する私の考えは変わりませんでした。
 食べることは他の命を犠牲にすることでもあるという"食育"は必要ですが、
愛情かけた愛玩動物を殺させてはいけないと思います。

 原作の教師は鳥山敏子氏の「鳥山実践」と呼ばれる食育に影響されて、
学級でブタを飼うことを思いついたそうです。
「鳥山実践」は生きたニワトリを生徒の手で殺させ調理して食べることで、
食糧や命の価値を考えさせるものです。
 人間含め動物は、生きていくために他の生き物を食べていかなければなりません。
他の命を犠牲にして、自分が生き長らえる、
これは真理であって、生き物である我々の原罪とも言えます。
現代社会はあまりにも食物を得る行為が簡単なため、
他の命を犠牲にして生きていることに無自覚になりがちです。
その意味で私は、実際に生き物を殺して調理し、
食べると言う行為がどういうことか自覚する、「鳥山実践」には賛成です。

 ただこの映画の教師は、食べるためにブタを飼うことを子供達に提案、実践しますが、
子供達はブタに名前をつけ、ペット感覚で飼育し始めます。
教師はそれを止められませんでした。
そこが間違いです。
名前をつけてはいけなかったのです。
教師は指導する立場にあるのだから、食育を始めるとき、
食糧とペットの違いをはっきりさせておくべきでした。
その場で一緒に悩んでどうするのでしょう。

 ペットとして飼った生き物に飼い主は愛情を注ぎます。
それは子供を育てるような愛情と変わりません。
そうして育てたものを殺すことができるでしょうか。
できない人間が普通です。
それを平然とできるような人間のほうが問題だと思います。
愛したものを殺さなければならない、
そんな二律背反した状況に人格形成途中の子供を置くのは、
当初の食育の意図とは別次元の問題であり、違うと思います。
私はそのような状態を受け入れさせるのは"歪んだ愛情"を生むような気がするのです。
例えば好きな人をいじめてしまうような、そんな歪んだ感情を。

 映画の中で子供達から、Pちゃんと、他の食肉用ブタと、
命に違いがあるのかという問いが出てきますが、
Pちゃんと、他の食肉用ブタははっきり違うのです。
愛情かけて育てた者の心には。

 最後には子供たちの議論が食べる食べないの問題から、
Pちゃんの面倒を最後までみないのかという責任論に
転化してしまっているのも気になります。

 ただ映画はこういった批判も承知で作られているようです。
冒頭、教師がこの計画を校長に説明する際の様子は、
軽い気持ちで始めているのが見て取れますし、
子供たちがブタに名前をつけるのに教師は躊躇し、
名前をつけることを聞いた教頭に批判させています。
 とすると、それを承知で出演した子供たちに同じ体験をさせた監督は、
ある意味罪深いことをしたものですが、
食と命の問題を改めて考えるには良いきっかけとなる映画ではあります。
                               (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2009-04-16 23:20 | 人間ドラマ | Comments(0)
 ニクソン役フランク・ランジェラの好々爺としたタヌキぶりがすごいが、
これはニクソンの実像なのか
  公式サイト

 ウォーターゲート事件で失脚した後、
政界復帰をも狙って初めて単独インタビューに応じたニクソンと、
自分の資産も投じてこのインタビューに賭けたというフロストの
真剣勝負の舌戦が呼び物であるこの映画、
確かにインタビューやその前の出演交渉などの駆け引きは面白いです。
 脚本がうまく出来ていて、個々の駆け引きの勘所を
各陣営内での会話や、関係者の回顧インタビューと言う形で
解説しながら見せてくれるので分かりやすく、引き込まれていきます。

 すごいのはフランク・ランジェラが演じるニクソンのタヌキぶり。
好々爺としながら、議論の矛先を巧みにかわし、自分の功績をアピールする話術は
かえってニクソンという人物を見直し、好感?さえ持ってしまいます。
(ニクソン側に肩入れしがちなのは、フロストを演じているマイケル・シーンの眉毛が
ジャック・ニコルソンのようで好きになれなかったこともあります(笑))

 でもここで描かれているニクソンは、本当にニクソンの実像なんでしょうか。
私のイメージするニクソンはもっと生真面目で、
人好きされない人物のような気がするのですが。。。
(会ったことがないので、分かりませんけど(笑))

 この脚本を書いたのは「ブーリン家の姉妹」、「クィーン」、
「ラスト・キング・オブ・スコットランド」の脚本家ピーター・モーガン。
 「ブーリン家の姉妹」では史実と違っているところも多々あったとか。
「ラスト・キング・オブ・スコットランド」では主人公は(モデルはいたらしいですが)
架空の人物でした。
 「フロスト×ニクソン」も、プログラムにある映画評論家町山智浩氏の解説によると
事実関係が異なるところが幾つかあるようです。
 特に、クライマックスとなるインタビュー後半部の裏事情は
ニクソン側関係者の証言が映画と全く異なっていて、
このドラマの根幹に関わる部分が変えられているのです。

 どうもこの脚本家は、史実を忠実に描いて、
史実にないところを作家の想像力で膨らませるようなアプローチはせず、
実話から自分が面白いと思ったドラマイメージを拡大解釈し、
そのために事実と異なる脚色もかまわないと考えているようです。
「チェ1,2」のソダーバーグとは対極の作り方です。
 まあ、映画制作法としてはピーター・モーガン的方法がほとんどで、
「チェ1,2」のような映画のほうが珍しいんですが。。。

 とうわけで、そういった事情を踏まえた上で楽しむならば、
とても興味深い人物像を描いてみせるドラマでした。
                            (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2009-04-09 23:10 | 人間ドラマ | Comments(0)

screen106 チェンジリング

 予想を上回る展開と、静かに胸を打つエンディングの佳作 公式サイト

 先日、村上春樹氏がエルサレム賞授賞式で行ったスピーチが話題になりました。
壁と卵の比喩、壁(システム)にぶつかって壊れる卵があれば
卵の立場に立ちたいという比喩を使ったスピーチです。
 この映画も言ってみれば、壁にぶつかってしまった卵の話です。

 「パーフェクト・ワールド」、「ミスティック・リバー」、
「ミリオンダラー・ベイビー」、硫黄島2部作と、これまでイーストウッド作品は
重くて、ある意味救いがなく、観るのにそれなりの"覚悟"がいるものばかりでした。
でも今回の「チェンジリング」はちょっと違いました。
最後に希望があるのです。それを信じる者に生きる力を与える希望が。
たとえそれが幻のような不確かで儚いものだとしても。

 プロットがよくできていて、本当にこれが実話?と思ってしまうほどです。
途中ホラーチックな演出もありますが、全編を通じて行方不明の息子がどうなったのか
を追うサスペンスになっています。
こんな結末なんだろうという予想を超えて展開し続いていく話は
144分の長さを感じさせませんでした。

 changelingとは"入れ替わり"とかいった意味かと思っていたら、
神隠しにあった子供とすり替わって現れる子供のことだそうで、
一般的な辞書にも載っています。
まさにこの事件そのもので、よくこんな単語があったなあ、と感心します。

 行方不明になった息子を取り戻したい一心で行動する母親というと、
ハリウッド映画なら「フライトプラン」のジョディー・フォスターのような
逞しいアメリカ女性が出てくるのだろうと思っていましたが、
「チェンジリング」の母親は警察の詭弁や嘘にも反論できないおとなしい女性です。
それが後半に変わっていくのも見所。
 本作のアンジェリーナ・ジョリーはこれまでの地でやっていたような
自信たっぷりの女性とは全く違って、気弱な感じの母親を好演しています。
この役でジョリーは今年のアカデミー主演女優賞にノミネートされていました。
                                (☆☆☆
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by am-bivalence | 2009-03-13 23:23 | サスペンス・スリラー | Comments(0)
一人称の主観映像が主人公の孤独を追体験させる 公式サイト

 映画にしろドキュメンタリーにしろ、
「闘病もの」ってあまり好きじゃないんです。
 あからさまに、お涙頂戴パターンが多いですし、
障害や難病に苦しむ人に対して、同情というエセ共感をするのは、
そういう境遇でない自分に安堵する裏返しのようで、
無礼で傲慢のように感じてしまうのです。
 うがち過ぎでしょうか。

 ただこの作品に興味を持ったのは、映画として評判が高かったこと、
北村浩子さんのポッドキャスト番組「books A to Z」
原作の紹介を聞いてでした。
原作が粋でユーモアのセンスに富んだものだったからです。

 原作者ジャン・ドミニク・ボビーはファッション誌の編集長だっただけあって、
ダンディで、女性関係も華やかな人だったようです。
 原作のエッセーは、絶望、苦悩、悲しみといったことを
ほとんど直接表現することはせず、ユーモアとウィットで包んで
変わり果てた自分を笑い飛ばそうとさえします。

 例えばある日、ジャンはガラスに映った自分の姿に気付きます。
麻痺して醜くゆがんでしまった自分の顔を見て、
愕然とした彼の反応はこうです。
”僕の中に引きつるような大笑いがこみ上げてきた。
災難に次ぐ災難の、最後の一撃をくらって、
もう何もかもが冗談だと考えるしかなかった。”
そして、彼はこう結びます。
”笑いに笑った。涙があふれ出すまで。”

 また、彼がまばたきによるコミュニケーション法で、
文章を綴る動機となったのは、友人達が自分を
”植物人間”と言っていると知ったからでした。
”僕という存在はもう、人間社会よりも青物市場のほうに
属しているのだ”と思ったとき彼は、
”自分の知能はまだゴボウより高いのだと証明”するために、
以前の知人達に宛てて手紙を出すのです。

 前回に引き続き、映画の感想なのか、
原作の紹介なのか分からなくなってきましたが、
映画はジャンが病院で目覚めるところから始まります。
カメラがジャンの目線になっていて、
最初ピントがなかなか合わず、視野も限られています。
そんな”一人称映像”が映画冒頭から15分間続くのです。
観客は否が応でも彼の置かれた状況を体験していきます。
独白で語られる主人公の気持ちが、周囲とちぐはぐなところが
彼の陥った状況を良く表していて、彼の孤独を浮き出せています。

 可笑しいのが、そんな状況の中でも彼が、
二人の美人療法士と面会すると、彼女の胸ばかり見ていること。
さすが、プレイボーイのフランス人です。
 ただこの”一人称映像”、どこか既視感があると思っていたら、
後で思い出しました。「ロボコップ」です。
マーフィがロボコップとして蘇生するシーンも
同じような一人称視点でした。

 原作よりも映画は、自分の肉体に閉じ込められてしまった者の
悲哀と孤独に、より焦点をあてています。
 また、この映画にはジャン以外にも閉じ込められてしまった人間が
二人登場します。
足が悪くてアパートから出られなくなったジャンの父親と、
ベイルートで拘束され何年も投獄されたという友人です。
監督はジャンの陥ったような悲劇を、病気とだけに限定していないようです。

 ジャンは自分を喩えるのに「目」か「潜水服」かと考えて、
「潜水服」としました。
潜水服なら、いつの日か脱いで、
自由を取り戻せるかもしれないという思いがあったのでしょうか。
                          (☆☆☆)
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by am-bivalence | 2008-04-17 00:38 | 人間ドラマ | Comments(0)